2018年の4月6日の午後、わたしは数週間前に引っ越してきたばかりのアパートで新しい生活を送っていた。引っ越したのは田舎に移って比較的安い家賃で広い部屋に住みたかったのもあるし、自然に囲まれた環境で静かに暮らしたかったのもあるが、何より周りに自分のことを知っている人が誰もいないからだった。その前に住んでいたアパートは大学の近くにあって、ちょっと買い物に行っただけで大学院の知り合いにしょっちゅう出くわした。アパート自体はそれなりに気に入ってはいたのだけれども、それが精神的に負担だった。わたしとしては大学院でのことはきれいに忘れてしまいたかった。新しい生活をはじめようと、近くに良い仕事先もみつけ、これからのことを考えて気分が明るくなっているときだった。
 
 仕事にでかける前だったか後だったか、たぶん天気でも調べていたんだろう。スマホでニュースのページを開くと新着の記事一覧の一つが目に入り、わたしは画面に釘付けになった。わたしの目を引いたのは、「早稲田大学」「セクハラ」という2つの文字面だった。
 
 わたしは立ったまましばらく動けなくなってしまった。瞬間的に「わたしのことが書いてある」と思い込んだからだった。なぜそういうふうに思ったのか今もわからない。そんなことはありえないのにわたしの頭の中には、誰が話したんだろう? どこから話が漏れたんだろう? 何を書かれたんだろう? などという不安が次々と湧き上がってきた。動悸が激しくなり、顔が熱く火照っていくのを感じた。意を決して記事を開くと、もちろんそれはわたしのことなんかではなく、教育学部の教員が学生を食事や映画に連れて行き、手をつなぐなどしたかどで、セクハラで懲戒処分になったという話だった。
 
 たった数行の簡潔な文章だったが何の予期もしていなかったわたしにショックを与えるには十分な内容だった。わたしはその前年の4月20日に、大学院の修士課程の指導教員であった文芸批評家の渡部直己からセクハラをうけた。その後メディアで報道された通り、指導と称して食事に連れ出され、そのレストランで「卒業したら俺の女にしてやる」と口説かれた、というものだ。わたしが呆然としていると渡部は同じセリフを繰り返し、店を出る際に身を寄せてきて耳元で「言っちゃった」と照れたように囁いた。わたしはほとんど反射的に店の前に止めておいた自転車に乗って、近くにいた友人たちの元へ逃げた。
 
 今でこそこのときわたしの身に起きたことは明確な人権侵害であり、許されることではまったくないとはっきり言えるが、わたしはずっと自分に突如降りかかってきたこの問題とどうやって向き合えばいいのか答えを見つけられずにいた。早稲田の大学院に入る前に在籍していた大学では、教員からセクハラの被害にあったこともそれらしきものに遭遇したこともなかった。大学院に入ってからも、先輩たちから渡部のセクハラには気をつけたほうがいいと助言されていたのだが、まさかこんな身近な場所で起きるわけはないと思っていた。わたしにとってはセクハラというものはもっと遠いもので、外から見てはっきりとした輪郭をもったものだった。テレビや新聞で大学の教員がセクハラをしてクビになったと報道されたときに聞くとんでもない話と、わたしの指導教員がしたことが同じものなのかがわからなかった。渡部から「俺の女にしてやる」という言葉を聞いたときわたしの中にあったのは、ただただ気持ち悪いという払拭しきれないほどの嫌悪感と、これからどうしようという途方もない恐怖感だった。
 
 その2日後、少し落ち着いてから大学院の同期の友人にわたしが渡部から受けたことを話すと、友人はそれはあきらかにセクハラだと言ってくれた。また、主任ならフェミニズムにも造詣が深いし相談にのってくれるかもしれないという友人の提案で、すぐにアポをとって一緒に当時の主任教授に会いに行くことになった。けれどもわたしたちの期待に反して実際に主任の口から出てきたのは、「面倒なことに巻き込まれるのは嫌だ」「そんなのたいしたことじゃない」「セクハラっていうのはもっとすごいものだから」「渡部さんなら大丈夫」という笑い混じりの言葉ばかりで、「あまり外では言わないほうがいい」と告げられた。そして「君には隙がある」と指摘され、話の矛先は渡部でなくわたしの欠点へと向かった。わたしは主任の指摘を鵜呑みにし、自身の欠点を直そうと思って知人らに相談したが、知人たちはわたしに代わって主任の言葉に違和感を覚え、それは典型的な二次被害だと言った。またその頃から、渡部は過去にも問題を起こしているということを複数の人から耳にするようにもなった。
 
 4月20日のあとも渡部からは電話がかかってきた。わたしが電話に出ず、翌週のゼミでもそのあとの飲み会でも渡部と距離をとっていると、渡部の態度は急に威圧的なものへと変化した。これは「大丈夫」ではないとわたしは危機感を抱き、他の教授たちにも相談して至急指導教員を変更することになった。手続きは迅速に進み指導教員は変更となったが、在学中最初から最後まで渡部からは一言の謝罪もなかった。逆に主任からはわたしから渡部に対して謝罪の言葉を一言いれるようにと指示された。そういった主任らのやりとりを傍目に見て憤りを感じた友人が、今度は一人で主任に話をしに行き、渡部からわたしに対して謝罪をするべきだと主張してくれた。けれども主任は聞き入れなかった。もはやわたしの一件はこのコース内では「解決済み」の事案のようだった。内心もやもやしながらも、わたしも友人も諦めるほかなかった。このコースに失望したわたしはそれ以降ほとんどすべての授業に出席することができなくなった。ただすでに取り組んでいた修士論文だけはなんとか仕上げるつもりだった。出席していないから単位が足りなくなることははじめからわかっていた。2018年の1月に修士論文を書き上げ無事提出したが、案の定単位不足で卒業不可となり、3月にわたしは中退し引っ越した。
 
 一連のことを会社勤めの女友達に話すと、どの業界の友人も「公式な処分がないのは会社だったらありえない」と驚いた。親しい男友達も同様の反応を示した。同級生の男性の一人はそれ以降渡部ゼミへの出席をボイコットした。そういう理解してくれる男性もいる一方で、「セクハラを受けた」とわたしが言った瞬間に吹きだす男性は学内・学外にかかわらず少なくなかった。「よかったじゃん養ってもらえば?」とセクハラを受けたことだけでわたしを“渡部の女”扱いし始める人もいれば、「そんなことこういう飲み会の場で話すなよ」と叱責してくる人もいた。女性には笑われることはなかったけれども、「レイプされたわけじゃないからまだマシなほうだよ」という意見はあった。わたしはそういったさまざまな周囲の反応に耳を傾けていたけれども、何が正解なのか答えがわからなかった。ただもう嫌なことは忘れて自分のやりたいことだけに集中していた。
 
 そうして被害にあってから1年がすぎた。
 
 引っ越したばかりの部屋でどれくらい立ち尽くしていたんだろう。数十回は読んだのではないかと思う。その短いニュース記事からやっと目を離し、それからわたしの頭の中に次第に強く湧き上がってきた思いは、もしわたしが被害にあったときに声をあげていれば同じ大学の教育学部の学生は被害にあわないですんだのではないかという罪の意識だった。自分が経験したことを外に公表しなかったせいで、少なくとも守れるはずの次の被害者を守れなくしてしまったのではないか? わたしは黙ったままでよかったのだろうか? もしかしたらもうすでに次の被害者が出ているかもしれないというのに、わたしは嫌な記憶は消去して、新しい生活をはじめている。本当にそれでいいのか? わたしはもはや「何にも知りませんでした」などと言えるような立場にはないのだ。内実を知りながら黙っているということは、間接的に加害に加担しているということになるのではないか?
 
 それと同時にわたしの中に湧いてきた思いは、「わたしなんかもっとひどい目にあってきたのに」「その程度のことで処分してもらえるの?」という、一言で言えば「ずるい」という感情だった。わたしは自分がそんな感情を抱いていることに気づいてぞっとした。「たかがその程度じゃん」という矮小化のセリフはわたし自身が人から言われて一番嫌だった言葉だ。被害者の落ち度を責めるバックラッシュを生むのはなにも加害者側に限ったことではなく、被害にあいながらもそのなかで生き抜いて痛みを封印してきた過去の被害者たちかもしれない。きっとここでわたしが何も行動を起こさず従前通り何もなかったように忘れてしまえば、わたしはこれからセクハラに対して声をあげている人たちを見る度に、自分が言われて一番嫌だった言葉を今度は誰かに向かって放つ人間になってしまうかもしれない。わたしには当時二歳になる姪っ子がいた。この子が大きくなって、万が一学校で同じような目にあったとき、相談してきた姪っ子に向かってわたしは「そんなのはよくある話だよ」とでも言うのだろうか? そんな叔母には絶対になりたくなかった。
 
 では今からわたしに何ができるのか。何からはじめたらいいのか何もわからなかった。戦い方なんか何も知らなかった。どこに相談に行けばいいのかも知らなかった。何を求めればいいのかもわからなかった。本人たちに謝罪をしてもらえばいいのか。でもすでに「解決済み」の問題を今更掘り返してとやかく言ったらお世話になった先生たちにも煙たがられるのではないだろうか。そもそも個人的に謝罪してもらったところで次の被害者が出ないとは限らないのではないか。ではハラスメント防止室に告げて公に処分してもらうことがいいのか。それとも#Metooのムーブメントにならってわたしも名前を出して立ち上がることがいいのか。しかし出版業界で名のある文芸批評家に対して、書くことを始めたばかりの無名の人間が立ち上がったところで、何の力も持たないまま逆に根に持たれて前途を潰されてしまうだけではないか。それよりはもっとキャリアを積んでから公表したほうがよいのか。もしくは直接戦うのではなく文学の作品の中にこの一件を織り込んで問題提起をすることこそが、長い目で見れば一番力を持つのか。
 
 とにかく何もわからなかった。それに正直言ってわたしよりはるかに強い存在に歯向かうのはとても怖かった。わたしはごくごく近しい人間を除いて他人に真っ向から盾ついたことがほとんどなかった。権威主義的な価値観の中でそれなりに適応してきた。理不尽な目にもあってきたがその度にへらへらと笑い、道化を演じ、最終的には黙って去ることで場をおさめてきた。でもそうやって「痛い」という声を体の中にしまいこみ続け生きてきた結果、自分が痛いと感じているかすらもうまく判断できなくなってしまっていた。
 
 わたしは入り乱れたためらいの気持ちを、信頼のおける友人や知人たちに相談した。彼らはわたしの身の安全を第一に心配し、誰しも生きたい人生を生きる権利があるのだし、無理に責任を感じる必要はないと言ってくれた。でも本当は「相談したい」と連絡をした時点でわたしの中で答えは決まっていたのだと思う。
 
 そうしてわたしは2018年4月16日、早稲田大学のハラスメント防止室に電話をかけた。その後どのようなことになったかは、6月20日にプレジデント・オンラインの記事で報道された通りである。
 
    *
 
『ヘルプ~心がつなぐストーリー』という1960年代のミシシッピを舞台にした映画がある。人種差別が法律で認められ、逆に人種差別反対運動が違法だった時代だ。エマ・ストーン演じる作家志望の主人公は上流階級の生まれで小さい時から黒人のメイドたちに囲まれて育ったが、大人になるにつれて白人社会に置かれたメイドたちの立場に疑問を抱き始める。真実を明らかにして本にしようと彼女はメイドたちにインタビューを試みるが、メイドたちはなかなか口を開こうとしない。語ることはすなわち身の危険を意味するのだから怯むのは当然だ。だが主人公は根気強くメイドたちの家に通い続け、次第にメイドたちも自らの体験を口にし始める。そしてある日、黒人メイドの一人エイビリーンが息子の話を語る。彼女は17人もの白人の子供を育てあげたベテランだが、肝心の自分の息子は24歳の若さで亡くしていた。仕事場で車にはねられたのだが治療を施してもらえないまま放置されたのだ。彼女は主人公に言う。毎年息子の命日がくるたびに息ができなくなる。でもあなたたちはいつも通りブリッジに興じているだけ。
 
 どこの世界にも暴力を振るう存在はいる。それは人間が人間である限り仕方がないと思う。残念ながらそういう存在はこれからも決してなくなることはないし根絶することなどできないだろう。けれどもわたしが今回体験した一連の出来事でまったく予期しておらず、何より悲しかったのは、多くの人たちが見て見ぬ振りをし手を差し伸べてくれなかったことだった。しかしながら、わたしはときどき考える。もし仮に、これが逆の立場だったら? わたしはたまたま今回被害者になったけれども、たとえばわたしに起こったことがわたしの身にではなく別の学生に起こっていたとしたら? 仮にわたしがその学生とあまり仲良くなかったとして、わたしは「でもあの子にもちょっと軽率なところがあるよね」と絶対に口にしなかっただろうか? あるいは仮に、わたしが渡部と適度に良好な関係を築いていて、口説かれることもなく、素直に全部単位をとって無事に卒業していて、卒業後も文芸誌の仕事を紹介してもらったりしていて、これから書き手としてのキャリアは順風満帆だと思えているときに、渡部からセクハラ被害にあった人から「協力してほしい」と言われたら? わたしはためらうことなく手を差し伸べられただろうか? 
 
 少なくとも被害にあった誰かを傷つける側にまわらないですんだことはわたしにとって救いだ。長い目で見れば、誰かに傷つけられたという記憶よりも、誰かを傷つけてしまったという記憶の方が、概して自らの心の底に癒えずに残り続けるものだから。加害の記憶は人を内側から蝕んでいく。それに今回の一連の出来事がこの身に起きていなかったらわたしはもっと嫌な人間になっていたのではないかと思う。他人に無関心で、自分のやりたいことや今後のキャリアにしか興味がなく、なんらかの暴力に加担しているかもしれないという自覚ももたないまま、身の回りでかき消されていく声に耳を傾けることもせず、安全圏に身を置いたままいっぱしの「文学」をやっている気になっていたのではないかと思う。
 
「何もしない」というスタンスは場合によっては容易に他者を傷つけうるということが、わたしが今回体験したことから得た最大の教訓だった。わたしはセクハラの被害者であると同時に、何かわたしの知らないところ、あるいは見ることを避けているところにおいては加害者でもあるのだ。それまでわたしは作家になるのを夢見ながら、すぐ傍にいる人の息子の命日にブリッジをしているだけの人間だった。しかし今回カードを手放し部屋を出たことで、わたしにはあたりにあふれる無数の小さな声が聞こえてくるようになった。
 
 引っ越してきたばかりのアパートで、たまたまネットの小さな記事を読んだ、その四月の午後の一瞬の出来事が、わたしにとって大きな契機となった。それ以来わたしの人生はがらりと変わった。人に評価されるために誰かの後をついていくだけの人生からドロップアウトできた。
 
   *
 
 直接的な言葉をつかって、直接的に物事を語るということに対して、長い間わたしはできるかぎり距離を置くように努めてきた。わたしはジャーナリストでもライターでもなく詩人であり、おそらく直接的な言葉とは最も遠い言葉を語るところに位置しているはずだったから。きっと心のどこかでそんなのは「文学」ではないと思っていたから。
 
 だからわたしは今まで直接語ることをしなかった。各社メディアは丁寧に取材しわたしの言葉を尊重してくれたけれど、でもやはりメディアを通した言葉はわたしのそのままの声ではなかった。友人たちが文章を書いたり呼びかけてくれたりもしたが、それでもやはりわたしは自分の声で語るということをしなかった。一連の出来事を通じてさまざまな言葉がわたしのそばを流れていっても、わたしはそれらに言葉を返すことなくただじっと聞き流していった。そうして失望するたびに、一つずつ自分の中で言葉が死んでいく気がした。わたしの中には沈黙が積もっていった。そのために文章が一切読めなくなったときもあるし、実際たくさんの本を手放した。自分の作品などもう長い間書いていない。最終的には沈黙するという姿勢でしか、そのこと自身については語ることができない気がした。
 
 わたしの目的は至極シンプルだ。姪っ子や子供たちが大きくなったときに安全に学べる場を整えておくこと。次の世代に手渡すときまでに少しでも生きやすい環境をつくっておくこと。人間に他の動物にはない独自の価値があるとするなら究極的にはその一言に尽きるのではないかと思う。しかし、世界を変える、社会を変える、環境を変えるという作業の実態は、その言葉の華やかさと裏腹にただひたすら面倒くさい。地味で泥臭くて目立たなく、なかなか成果も結果も見えず、膨大な時間と労力をかけて書類を作成したって原稿料も文学賞ももらえない。誰も見ていないところで淡々と行うねじまきみたいに退屈な作業だ。でも水が流れっぱなしになっている蛇口があったら、それに気づいた誰かが閉めなくては床が水浸しになってしまう。悪というものはくっきりとした輪郭をもったものではなく、気づいたらいつのまにか溢れている水みたいなものだ。ゆるやかな悪に流されないようにするにはわたしたちは根気強く蛇口を閉め続けるほかない。
 
 わたしはこれから、直接的な言葉で、自分の身に起こったことを語ろうと思う。こんなの文学ではない、という人がいるのなら、文学なんかじゃなくて一向に構わない。文学的に価値があるかどうかなんてどうでもいい。はっきり言って、文学に力があるなど今はもう以前ほど信じていない。ただわたしはこれ以上水が流れていくのを堰き止めたいだけだ。
 
 今からわたしは自分の言葉を、ここに打ち立てていこうと思う。


                                                                  2020.09.11                             

原告A

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です