現状を変えるために何かしたいと思ってはいても、「戦い方がわからない…」と躊躇している人は多いはず。高学歴ワーキングプアを生き延び、現在は国立大学で教鞭を取りながら、畑をたがやし、子供を育て、日々工作活動につとめている長崎在住の哲学者・アナキストの森元斎さんに、具体的な戦い方・道の外れ方・友達の作り方などを教えてもらいました。いざ革命〜!

 

森元斎さんプロフィール
 
東京出身。主な著書に『具体性の哲学 ホワイトヘッドの知恵・生命・社会への思考』(以文社、2015)、『アナキズム入門』(ちくま新書、2017)、『国道3号線 抵抗の民衆史』(共和国、2020)、『もう革命しかないもんね』(晶文社、2021)。
 
 
 
おおざっぱな年表
 
1983年  東京の西の方生まれ
2003年〜 中央大学文学部哲学科
2007年〜 大阪大学大学院 人間科学研究科 
2010年〜 日本学術振興会特別研究員
       パリ西大学ナンテール・デファンス校 研究員
2011年〜 福岡に住みはじめる
2012年  龍谷大学 非常勤講師
2013年〜 国立熊本高校専門学校 非常勤講師
2015年  ようやく博論提出で修了
       就活をはじめ、いろんな大学で非常勤講師をやる
2019年  長崎へ移り、長崎大学で准教授に 

  

 

田舎暮らしでできること——おっさんが楽しくない現場にする

 

——森さんの新刊『もう革命しかないもんね』(以下『もう革』)読みましたよ〜。

 

 あ、すみません……ありがとうございます。

 

↑ 森さんが福岡の里山地域に移住してから長崎に引っ越すまでの2年にわたる悪戦苦闘のドッキュメント。

 

——わたしも田舎に移住したくて、「そういえば森さんってどんな生活送ってんだろ?」って気になってたから参考になりました。文章も平たくて読みやすかったです。

 

 いまちょうど福岡・長崎と暮らして10年なんですよね。

 

——もともと九州の体質が好きだったんですか?

 

 そうですね。相互扶助を知ったのは九州でしたね。みんな助け合って生きていきましょうね、みたいなね。

 

——家探しとか、家づくりとかも手伝ってもらったって書いてましたよね。

 

【相互扶助】(mutual aid)  
アナキズムの重要概念。アナキズムは権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想(by 鶴見俊輔)。詳しくは森さんの『アナキズム入門』をご参照あれ。 

 

——田舎ってそうやって地域の人が助けあったり、自然が豊かで野菜がとれていいな、とか思うんですが、その反面、ジェンダー意識やハラスメントの認識は低くないですか?

 

 むちゃくちゃ低いっす。

 

——わたし旅行で田舎にいったりするといちいち発言にひっかかちゃうんですよね。

 

 それこそ僕が福岡に住んでた時にやってた子ども会の理事会は、公民会で飲み会やってたんですけど、60〜70代のおっさんとかがくると、女性は冷蔵庫とごはん炊くところでずっとおにぎり握ってて、男性はずっとふんぞり返ってて、そういうの超イヤって思って。だから30〜40代の自分ら若い人たちは女性と一緒におにぎり握ったりとか、むしろ台所でみんなで話して、おっさんたちはあっち、みたいな。そうするとおっさんが「酒ないすかね?」って台所にくるから、「いや自分でとってくださいよ、適当にここにあるけん」っていって、土壌をずらして、こっちはこっちで勝手にやっていた。

 

【土壌をずらす】
 正攻法で敵と対峙するのではなく、正攻法とはずれた仕方で対峙すること。つまり、法の抜け穴を探し出したり、交渉でサインを送り合って話をずらしたり、デモのルートとは違うルートから襲い掛かったり、整備された方法とは違うやり方で戦ったり、とにかくずらそう。(by『もう革』) 

 

 そういうことを続けていると、おっさんも楽しくないからこなくなるんですよ。ゆっくりおっさんを排斥——っていうといい方悪いですけど、おっさんが楽しくない現場にしていって、みんなでたのしい飲み会をつくっていく、というのを1年くらいかけてやったかな。

 

——それはいいですね。

 

編集部 「おっさんが楽しくない現場にする」ってのはいい言葉ですね。

 

 大学とかはその典型例ですね。おっさんが楽しくない現場にしないといけないと思います。

 

 

身体で学ぶということ

 

——森さんが学生の頃の話を聞かせてください。

 

 はいはい。

 

——学部は中央大学でしたよね。奨学金借りてたんですか?

 

 そうですよー。

 

——学費も払って。

 

 学費も自分で払ってましたね。バイトと奨学金で払ってました。バイトはそれなりにしてましたよ。とても人に言えないようなバイトもやったりしてたのですが、それは稼ぎもよくてほんと楽でした。そのバイトもなくなると普通にコンビニバイトもしたし、派遣会社に登録して、引越しとか鳶とかやってました。そのあとは古本屋とか映画館でもやってたし、学部3年くらいからは塾講師をずっとやってましたね。

 

——そんだけバイトしてて大学いく暇ありました?

 

 あ、だから全然いってないです。当時は前期・後期もなくて通年の授業しかないから、通年で30回くらい授業を受けて、最後にレポート出す、みたいな。昔は文学部ってそういう授業多かったんですよ。

 

——え、通年だったんだ。知らなかった。

 

編集部 そういえばそうでしたね。

 

 1個授業とったら4単位とか。昔の文学部の先生ってゆるかったんで、授業中にタバコ吸ったりもしてたし、ほとんどの先生が「大学なんて勉強しにくるところじゃない」という共通認識があったので、僕も全然でてなかったんですよ。だからバイトできたし、あとだいたい文学部の授業はレポートで単位が認定されるんです。だから授業出てるやつに課題内容を聞いて、満遍なく4年間で30単位ずつ取っていきました。

 

——中沢新一さん(思想家・人類学者)にあったのってその頃ですか?  

 

 ああ、そうです。学部のとき。僕は文学部だったんですけど、総合政策学部っていうイケイケの学部があって、そのイケイケの学部に中沢新一氏がいて、まあ彼は有名人だったし、僕も本とか一応読んでたんで、最初は生意気な感じで「議論をふっかけて困らせてやろう」みたいに思ってて、それで行ってみたらミイラ取りがミイラになった感じです(笑)。衝撃を受けたんですね。やっぱり授業すっごいおもしろいんですよ。で、たまたま一緒にバンドやってた友達が中沢ゼミに入るっていうときに、「俺も入りたいな〜」っていって、最初のゼミのときに「入れてください!」っていったら、「いいよー」っていわれて、そっから2年間みっちり中沢先生の授業全部受けたし、ゼミも休まず全部いって合宿もいった。だから僕は一応文学部哲学科に在籍してたけど、すごい影響受けたのは中沢新一氏ですね。

 

——身体を動かす、という意味でですか?

 

 そうですね。学部生は多かれ少なかれみんなそうだと思うけれど、僕も頭でっかちだったので、ボコボコにされたんですよ(笑)。「ポストモダン万歳!」みたいな発表したら、「君は賢いからこういう文章わかるかもしれないけど腹でわかってるのか?」っていわれてアウアウアウ…ってなって、そっから大学3、4年のあいだ中沢ゼミで田んぼ行ったり修験いったりして、体動かすのって重要よねってだんだんわかってきた。そのときぐらいから哲学の本を読むときに、自分に向いた哲学者の思想構造を体で理解するようになって、勉強がどんどん楽しくなって大学院までいっちゃった。

 

——合宿で修験をするというのはかなり自由ですね。

 

 うん。すごいおもしろい経験だったっすね。要するに修験って象徴的な意味合いと地のものが繋がってるんですね。たとえば、山の中は死の領域、平地は生の領域なんですけど、白装束を着て生の領域から死の領域に入っていくことによって死ぬ。そしてまた生まれ直して平地に出ていく。そうやって「偽死再生」を経験する。身体を動かすことと象徴的な意味が結びついているんです。そういうふうにアクチュアルに動くことによって、小難しい象徴的な意味と、実際の平地や山みたいな地理的な位相が結びついて附に落ちやすくなるというか。

↑ 修験

 

——いいなー修験やってみたい。最近は大学の管理も厳しいし、身体をつかった授業ってやりづらくなっていますよね。

 

 そうですね。ただ、哲学でも、本を読むって身体的なことだと思うんですよね。みんなで机を囲んで、難しい文章——デリダならデリダのフランス語の文章を、ひとりひとり原語で読んで、それについて厳密に読解をしていくというのも。人が目の前にいて、声が聞けて、考えてるさまをみて「あいつ考えてるフリしてるな」とか考えながら(笑)、読書会をしていくというのも結構身体的なことなんじゃないかな。だから人は対面っちゅうか、顔と顔突っ伏してるほうがいいよね。

 

編集部 対面はもちろんだけど、紙で文章を読むことがなくなることのヤバさはすごく感じます。特に外国語の文章なんて、ディスプレイ上で見るのとフィジカルな紙で見るのと全然内容の理解度が違うというか。

 

 僕らが大学生くらいになったときに電子辞書がでてきたじゃないですか。電子辞書で調べた単語って全然覚えないんですよ。

 

編集部 覚えない。頭に入らない。

 

 電子辞書だと全然覚えなくて、結局分厚いけどロワイヤルとか紙の辞書で調べると覚えるんですね。線引いたりして、また忘れてても、もう線引いてるのをみて、「あ、これぜったい覚えなきゃいけないやつやん」と思ってまた覚えていく。それは身体的だし、やっぱり3次元のほうが知覚情報は多い。2次元——純粋な意味では2次元ではないですけど——だと情報薄くなるんだなっていう気はしますね。

 

——わたしは小学校のときから電子辞書だったよ。

 

 しかも小学校のときから電子辞書だからといって、別に語学能力が下がっているわけでもない、っていうね。でも、語学の覚え方も変わっているんじゃないかな? うちの大学(長崎大学多文化社会学部)の学生とかは特にそうですけど、英語のコミュニケーション能力すごく高いんですよ。みんなペラペラ喋るし、発音いいし。ただ、それはちょっとした会話能力が高いだけで、冗談の中身とかはペラッペラなんです。その違いはあるかな。うちにきてる学生って英検一級もってる子ばっかりなんですけど、講読の授業で英語でデヴィッド・グレーバー(アナキスト・人類学者)とか読んでるんですが、学生は何一つわからないんです。

 

↑ グレーバーさん

  

——文は読めるけど、意味がわかんないってこと?

 

 うん。意味がわからない。だからちょっとした英語能力とかは僕よりも全然高いんだけど、たぶん本が読めないんですね。まあ、だからそういうことをやる場所としての大学というのではそういう授業をやる意味はあるかなと思っています。

  

——いまでは紙の本を読むというだけでも十分身体的な体験になっているのかもしれないですね。

 

 

日本学術振興会の研究員に

 

——それから森さんは大学院に?

 

 大阪大学に入って、そこでマスターとドクターにいきました。マスターのあいだはおそらく人生で一番勉強したんじゃないですかね(笑)。読む本は全部フランス語かドイツ語か英語かばっかりだったし、当時はホワイトヘッド(イギリスの数学者・哲学者)の研究をやっていて、その科学的な側面をやるうえで数学とか物理学とかもすげえ勉強してたんです。そのときは近藤和敬さん(フランス現代哲学)という人を捕まえてフランス語の読書会を週に3、4とかやったり、デカルトを日本語じゃなくてちゃんとラテン語で読むとか、とにかくずーっと勉強してた。朝から晩まで同じ喫茶店にずっといたりした。

 

——すごい勉強量ですね。

 

 でも修論はあんまりいいものが書けなくて、結構ボコボコにやられて(笑)。だけどまあドクター行こうと思ってドクターいって、1年たった頃くらいから留学をぼんやりと考えていて。大学院となると1年目で単位はだいたいとれちゃうから、2年目以降はフランスにいって、って感じですかね。いかんせんお金がなかったんだけど、そうこうしているうちに運良く日本学術振興会(学振)の研究員になれちゃったんです。そうすると月20万もらえる。

 

——学振の研究員ってどうやってなれるんですか?

 

 日本学術振興会に書類を書いて申請するんです。その書類がクソめんどくさいんですけど、業績とか、今後の研究の課題とか、抱負とか、ワーっていっぱい書いて、それを出して、審査されて、そのあとに合格/不合格がくるんです。

↑ 日本学術振興会HPより「特別研究員」制度

 

——でもあの制度、受けられる人すごい少ないですよね。

 

 その年の国家予算にも影響されるんですよね。僕が学振に通ったときって民主党時代だったんですけど、民主党時代ってなにげに学振の研究員多かったっすよ。

 

——そのお金でパリに客員研究員として留学にいったんですか?

 

 そうですね。そっからは奨学金は借りずに、研究員のお金だけで学費も払ってた。月20万もらえるとはいっても学費が月5万ずつくらいかかるので、月15万くらいで貧乏なパリの生活を毎月暮らしていましたね。

 

——何年間いってたんですか?

 

 1年半です。後半は日本と行ったりきたりでした。

 

 

パリ貧乏生活での勉強会

 

——パリでは現地の学生とも関わったりしましたか? 

 

 そうですね。所属していたナンテール大学の文学部哲学科の関係と、あとは当時パリに日本人が多かったのでその界隈ですね。それに加えて、アナキスト界隈。哲学や社会思想をやってる人が多かったので研究会・勉強会やったり。そっちはそっちでみんないい人たちだし面白いんだけど、なんか、哲学ばっかやっててもつまんないじゃないですか。なので、別のアナキスト界隈の人たちから、「こんなのあるよ」とデモとか誘ってもらって、集合時間だけ教えてもらって、とりあえず行って遊ぶみたいなことしてました。みんな「次、何する何する?」ってすっげー楽しそうに喋ってるんすよ(笑)。

 

——楽しそう。

 

 あとは夜中にビラ張りにいったり、おいしい中華料理屋とか教えてもらったりして、楽しかったですね。

 あと、研究会が毎週のようにあって、「研究会あるよ」っていわれていくと、参加人数は5人とか10人とかしかいないんですけど、そのうちの3人くらいはすごい人だったりしました。10人くらい参加していた研究会の中にアラン・バディウとか有名な哲学者とかいるんです。普通のゼミ室みたいなところに自分と大学院生何人かと活動家と大学の先生3人。そのうち一人バディウです(笑)。

 

↑ バディウ

 

 そういえば、デヴィッド・ハーヴェイ(イギリスの地理学者)が講演会のついでに研究会にもきていて、「フランス語わかんないやー」って笑って座ってるときとかもありました。

 

——いろんな層の人がいるってこと?

 

 そうなんですよ。研究会でデヴィット・ハーヴェイがくるとしたら、すごい大講演がうたれるんじゃないかと思っていくじゃないですか。でもぜんぜんそんなことはなくて、そのへんのおっさんなんです。それは日本ではちょっと考えられない。

 

——それでみんな同じ対等な立場で喋ってるの?

 

 そうですそうです。それで僕はまだ中途半端に生意気だったので、ピエール・モンテベロっていうドゥルーズ哲学研究者の大家がいるんですけど、モンテベロさんの発表のときに嫌な質問して嫌われたりしてました(笑)。

 

——(笑)。いいですね。そうやって対等な地平でいろいろ言い合える機会が開かれているのって。

 

 だから勉強するにはほんとパリってよかったと思う。

 

——あんま上下関係なさそう。

 

 もちろんあるんですけど、研究者という意味では皆平等ですからね。あと、他の人からすれば僕なんてわけわかんないじゃないですか。どっからきたかもよくわかんないし。何回か会ってるからなんとなく認識はあるとはいえ、「あなた誰ですか?」みたいな感じだった。でも別に排除も排斥もないし、そのあとの飲み会とか普通に誘ってくれるし。みんな優しいし。

 

——その内と外の分け隔てがない感じ、いいですね。

 

 

教員の就活って大変

 

——パリから帰ってきた後は?

 

 お金がなかったので、パートナーの福岡の実家にいって、マスオさん状態。子どもいるんだけど無職で。でも、「非常勤になってないと大学の先生にはなれない」といわれて、お情けで非常勤の仕事をもらったりしてました。大学が遠くて交通費がでなくて、その時期は2ヶ月に1ぺん肺炎になってました(笑)。

 

——それから就活をしたんですか?

 

 そういう生活を続けてて、2015年にようやく博士論文をだしたんですよ。指導教員と仲が悪くなっちゃてずっと論文が出せなかったんだけど、別の先生があいだに入ってくれて、それでやっと論文出せて、博士号もらったあと就活はじめました。

 

——森さん『もう革』で色々書いてましたけど、教員の就活って大変なんですね。やっぱり就活生のようにアピールしたりするんですか?

 

 僕の場合、その大学で働きたいなって思ったときは、それなりにアピールは頑張りました。とりあえず全部、出せるとこは公募書類出すんです。そんなに働きたくない大学にはあんまりアピールしなかったけど、でもそういうのは普通にバレますね。それなりに気合いれて出したところからは面接に呼ばれたりしました。ただ面接でもボコボコにされますけど。

 

——圧迫面接?

 

 圧迫面接も一個あった。逆圧迫もしました。

 

——どういうこと?(笑)

 

 当時は面接とか授業のこと全然わかってなかったんで、模擬授業というのやるんですけれど、話きいてほしいからまず教壇をパーンと叩いて、「それでははじめます!」って授業やったりして。そんなんアウトに決まってるじゃないですか(笑)。

 

——なんのために?

 

 自分の気合いをいれるために。

 

——お相撲さんみたい(笑)。昔だと、大学院に行くことは教員になることとイコールだいうイメージがありましたけど、いまはもう全然そんな感じじゃないですよね。

 

 分野にもよりますけど、哲学とか文学の分野は、ほとんど就職できませんよね。

 

――じゃあ森さんとか栗原康さん(※ 第二回インタビュー参照)がいま大学に職があるのって、運がいいほうなんですか?

 

 奇跡みたいなもんですね。国立大学がアナキスト雇ってるみたいな(笑)。

 

 

学生には戦略を教えよう

 

——森さんって学生に厳しいですか?

 

 いや〜甘々だと思いますよ。

 

——あ、でも本に書いてありましたけど、やる気のなかった学生が留年しそうになって、最後に救済措置あげるはなし読んで、森さん優しいなって思った(笑)。

 

 ああ(笑)。あれはもう少し若かったのもあるけん。いまだとどうかなぁ。長大の学生、悲しいことにみんなできるんですよね。

 

——いま森さんって長崎大学の准教授なんですね。大変ですか?

 

 仕事は多い方だと思います。大学の各学部にいろんな委員会ってのがあるんです。それこそ学生に近いところだったら学生委員会とかハラスメント委員会とか。他にも広報とか入試とか教務とかあって、いま自分がやっているのは出版と総務。普通は教授が委員会の委員長というものをやるんです。それはどの大学もそうなんですけど、うちは人数が少ないので、僕は出版委員会の委員長とかやっていて、紀要とか大学内の出版助成の仕事をしてます。他にも僕ヒップホップサークルの顧問やってるんですけど。

 

――いろいろやってますね(笑)。

 

 ヒップホップサークルの子たち、しょっちゅう問題起こすんですよ(笑)。でも一応、問題起こした時は「事務方にはこういうふうに言えば?」とか戦略教えたり、あとはそれこそ自分も学生と一緒に頭下げにいったりだとか。たまに、学生たちがクラブでやってるイベントに顔出して、学生とフリースタイルバトルして負けたりして。

 

——めっちゃいい先生〜。

 

 まあ頭下げてサークルが存続するなら別にいいや、と。

 

——そういうふうに学生と大学がぶつかったときに気軽に間にはいってくれる先生がいるとすごくいいなあ。

 

 早稲田にはそういう人いないですか?

 

——人によるかな。助けてくれる教員もいたけど、大学側につく教員もいた。

 

 へえ〜。僕が聞いてる例だと、だいたい悪いやつって事務に多いイメージです。今のところ職場で直接接する事務職員はいい人ばっかなんですけど、いままでいた大学では、変な事務職員とか、ものすごく権力持っている事務職員とかがいて、悪そうなこといっぱいしてました。

 ある大学では、教員は学生と一緒にイベントやったりして、そこにとやかくいう教員はいなかった。教員がそれをやるというのは、ある種、教育研究に資することだし、「文句言うんだったらお前やれ」ということになるから、良い意味でも悪い意味でもほっといてくれていたような気もします。もちろん、参加しない教員もいるけど、それは単に興味がなかったり、忙しかったりするだけで、嫌がらせとかではない。ただ一度、ある大学でのイベントで、事務方が「うちの大学の名前を汚すな」という感じでイベントを阻止したりしてきたことはあります。

 

——対立の構図がわかりやすいんですね。全学vs学生とか。

 

 だから教員が大学の体制側につくというのは、例えば2000年代頭の地下部室闘争くらいから教員の中でも権力志向みたいなのが内面化されていって、じんわり浸透してきてるところがあるのかもしれないですね。もちろん、60年代の学生闘争の際に教員のあり方も問われてきたということもありつつ、それでも、教員が体制的な判断を下すような、少なくとも文系の部局ではあまりなかったように思います。

 

——早稲田では、わたしの告発した後、教員内・学生内で分裂や対立がおこっちゃったりして残念に思ってます。

 ヨーロッパだと、学費値上げ反対闘争にしても教員が学生といっしょにストライキをやったりしますよね。日本だと教員と学生が一緒になって戦う機会があんまりない気がする。どうやったら連携がとれるのかな。

 

 僕が前にある学校で、新しい学部の建物の建設の反対運動をやったときは、最初はたった一人の教員が反対していたんです。で、その教員が大学やめちゃって、なし崩し的に大学が計画を進めていってしまったときに、「やっぱりおかしいよね」と周りの先生たちが立ち上がって、それを阻止するという形で盛り上がっていきました。山を切り崩して建物を建てるというから、その山自体にすごい面白い自然環境があるよ、絶滅危惧種がいっぱいあるよ、といっていくことで、その山を崩されないようにしていくという運動をやったんです。

 でも最初のうちは学生はあんまり参加してなかった。でもちょうどその頃、学生のなかで学内バスの乗車拒否にあっていた車椅子の学生がいたんですね。それでその学生は大学に対してムカムカムカムカしてて、「じゃあ大学にギャフンといわせようや」ってなって、その学生に中心になってもらって、「学生の多様性も守れず今度は生物の多様性も守れないのか」ということを戦略的にいってって、署名を3000くらい集めて、学長に渡すときにメディアに来てもらったりして、結局山は切り崩されなくなったんです。だからそのときは先に教員だったけれど、あとに学生がきた。わいわいがやがや盛り上がっておもしろかったですね。そのときも最終的には悪の権化みたいなのは、事務方だったな。

 

 

 

→インタビュー②良い教員、悪い教員