とりあえず場所をつくろう——「悶え加勢」すること

 

——最後に、運動のやりかたについて相談させてください。

 いろいろ運動を見ていると、何かに対してみんなで反対運動するようなケースと、わたしの事案みたいに、ある被害者がいてその人を支えるというやりかたがありますよね。わたしはこういうの組織するのはじめてなので他の運動がどうなのかよくわからないんですけど、今、自分の団体をやっていても、ひとつひとつのハラスメント被害相談を運動のレベルで繋げるのがなかなか難しいなと感じてます。というのも、みんなハラスメント被害を受けてまだ傷が癒えていない状態だし、わたし自身もあくまで一被害者なので、他人の相談まで引き受ける余裕がない。そういう状況で大学のハラスメントの運動というものをどうやって広められるかな、って考えてます。

 

 なんですかね。野戦病院とか作ればいいんじゃないですかね。

 

——野戦病院?

(※ イメージ)

 

 つまり戦争状態だから、ケアする場所があるといいんですよね。だってそれで鬱になったりという状況だってあるわけだし、大学だとカウンセリングもあまり充実しているわけではないので、そこで体制づくりとかあったらなお声もあげやすいですよね。

 

——たしかに、ハラスメントによる精神的被害を相談できる場所が大学にあるのかどうかも確かじゃないし、民間の団体も人手不足でカウンセリングまでは手が回ってないのが現状です。グループカウンセリングとか自助グループとかがあるといいのかも。

 

森 いま水俣病の運動を思い出したんですけど、その支援のあり方でも、業務がいくつかにわかれていて。なかでも相談業務する人が一番辛かったりすんですよ。一緒に話して、一緒に背追い込む。そういうことができるひとがもっとたくさんいたらいいなと思う。

 

――森さんが『国道3号線』のなかで紹介していた、石牟礼道子の「悶え加勢する」という言葉がありましたよね。水俣の支援者の方に石牟礼さんが言ったセリフ。

 

 

 

「あんたは悶え加勢しよるとね。昔は水俣にもあったとよ。人が苦しんでいるときに、その人の家の前を行ったり来たりして、何もできないけど、一緒にいるでしょう、悶えて加勢する。それで救われるとたい。」
 
 ——『国道3号線 抵抗の民衆史』(99頁) 

 

——被害者がいて、その周りで支援をする人たちがいる運動の場合、本人の痛みを彼らがそのまま感じることは不可能ですよね。被害者に同化するのではなく、むしろ、「絶対に当事者にはなりえないんだ」という現実を認識することから始められることもあるのかなって思いました。

 

 友達とけんかしたあとに、無言で一緒に海見ると仲良くなったりするじゃないですか。無言でもいいから、時間を共有してるだけで、その人との親密性って高くなる。ただ、そばにいることによって、運動的にはなんの前進にもなんないけれど、精神的にはそこで物理的にとなりにいることで、癒されるじゃないけれど、ちょっとほっとするというか。そういうことは往々にしてあると思う。それが「悶え加勢」という概念なのかなと思ってます。だから飲み会したり一緒にお茶飲んだりとか、しんどくなったら、ポンポンとそういう場所が立ち上がるのがいいのかなと。

 さっき野戦病院といったのは、ギリシャで反グローバリズムの運動がすごい盛り上がったことがあって、ソーシャルセンターがわーっと立ち上がっていって、「野戦病院が必要なんだ」という話になったんです。経済的にdepress(=不景気)すると人間もdepress(=鬱)するじゃないですか。そのときも鬱病が増えたんです。それで運動に参加した医者が処方箋を出したりして、抗鬱剤を請求して、ソーシャルセンターに「飲みたい人は飲んでください」って置いといて、野戦病院みたいな機能を果たしてたんですね。もちろん、向精神薬とか飲む/飲まないの問題もあるのですが、これって、ある種、病院機能を果たしていますよね。

 

——へえ〜。

 

 そのソーシャルセンターって部室みたいなもので、そこに1日いれば誰かくるという場所だったんです——たとえば、僕、以前みんなで共同で場所を借りてお金を出し合ってテトラって場所やってて。

 


↑ アートスペース・テトラ@福岡

 

 場所があるというのは結構いいんじゃないかな。そういう場所ってともすれば閉鎖的になってしまうけれど、たぶんそれがそれぞれの場所にいっぱいあればいいんですよね。東京って、IRA(イレギュラー・リズム・アサイラム(Irregular Rhythm Asylum:IRA))もあって、Lavanderiaもあって、素人の乱もあって、長崎のような場所ゼロのところからすると東京ってすごいなって思う。それぞれ色もあるし、なんか敷居高いと思っている人もいるだろうから、そうだったら、作っちゃえばいい。それぞれの場所の創設があるといいんじゃないかな。

 

――うんうん。

 

↑ IRA

↑ Lavanderia
↑ 素人の乱

 

 ヨーロッパの都市やニューヨークで驚いたのが、そうした場所がいっぱいあるんですね。アナキストたちがやっている場所。ただの場所なんです。何をするわけでもない、ソーシャルセンター。場所によってはキッチンがあるから、そこでご飯を作る。何人分か作ったら安く済むじゃないですか。そのために使う人もいるし、トークイベントやるために使う人もいるし、会議をする場所として使う人もいる。本屋さんをやっている場所もあれば、八百屋さんをやっている場所もあった。面白いところだと印刷所をそういう風に使っているところもありましたし、もちろん、カフェも。ヨーロッパってそういう場所が多くてすごくいいなあと思ってて。一個の場所にこだわらずにいろんな場所があって、それぞれの運動に加担するけど、それぞれの運動に加担しない。みんな付かず離れずで分散しつつ。人間なんて多様なんで、一箇所の場所ですべてが事足りるわけないじゃないですか。音楽の話だったら音楽のスペースいって話せばいいし、演劇の話したいなら演劇のスペース、哲学の話したいんだったらここ、アナキズムの話したいならここで、っていっぱいあってしかるべきなので、そういう場所があればいいな。

 もしかして日本ってそういう場所が少ないのかなという気がしています。昔は大学だって公認以外のサークルなんかごまんとあったじゃないですか。今は長大みてても非公認のサークルがすごい少ないです。自分が学生だったときと今の学生を比べると、そういう場所のつくりかたというか人の集まり方がだんだん苦手になっているのかな、とその差は感じます。

 

——たしかにリアルでの友達の作り方がもうわからないです。自由に使える場所も少ないですしね。

 ただ、今はそういうつながりがデジタルでできるし、同じ趣味を持った仲間もより見つけやすくなっていると思うんですが、デジタルではなくあくまでリアルな場所があることの意義ってなんでしょう?

 

 デジタル・リアル双方ともに良し悪しはあると思いますし、好みもあると思います。デジタルは0と1の信号の組み合わせで、様々な情報を表現することが可能である一方で、リアルは0と1どころかより多元的なものの組み合わせで情報をやり取りできます。Zoomで授業していても、学生の表情がよく読み取れず、自分が話した内容が本当に伝わっているのか、判別しにくい。その一方で対面授業だと、学生たちがいる教室の雰囲気があり、あ、今の話は伝わってねぇな、と判断できて、別の角度から話を伝えてみようかな、と思えます。Zoomで授業するのに、もちろん研究室からやる必要もなく、自宅からできたりするので、通勤しなくて良かったり、物理的に楽な面もありますが、学生の雰囲気がよくわからないことが多いので、精神的には疲労します。もちろん、チャットとかで質問をバンバンしてくれたりすると、ああ、聞いていてくれたんだなと思い、ほっとするのですが。また教授会や大学の会議の多くがオンラインで開催されるようになり、内職しながら、聞いたり聞かなかったりできて、その点では、嬉しいものだったりします。

 で、仲間ができるできないの話ですが、どの程度の仲間かにもよるかと思います。やはり、そもそもリアルで知っている友人たちとデジタルで繋がっているのか、あるいはデジタルで知り合った人とデジタルのみで引き続き繋がっているのかと考えれば、前者の方が圧倒的に多いでしょうし、よく知ることができるという意味では、デジタルよりもリアルの方が圧倒的に軍配があると思います。じゃあ、なんで多くの仕事が在宅でかつデジタルでこなせるのかと言えば、重要ではないからなんじゃないでしょうか。弁護士や医師はAIに、これもデジタルですが、全部任せられる仕事だと言われていますね。過去の判例や過去の臨床例の蓄積を即座に選択して判断するのは、人間よりもコンピュータの方が圧倒的にはやい。ほとんどの弁護士や医師は不要です。ですが、弁護士も医師もAIにできない領域で重要なのはリアルに話し、その場の雰囲気を共有でき、時に法律上のあるいは、身体の相談をしながら、日常のあれこれの話を聞いてくれるリアルさこそが、重要なんだと思います。だから三分診療で医師はバカみたいに稼ぐなんて言われますが、人の話を聞けない、つまり後の本当の意味で臨床ができない医師は不要です。きっと弁護士もそうでしょう。

 

——そうですね。わたしも自分の代理人弁護士とはよく他愛のない話してて、そういう人間的な温かみ込みで信頼してます。だから人間と会うのはリアルの方がいいとはわかってはいるんですけれども、わたしは出不精なんで、新しい場所にいくのって結構ハードル高いです。

 

 僕も時期によっては出不精だったり、時期によっては元気に外に出たりする人間です。あと、こう見えても、ものすごい人見知りなので、新しい場所はいつでもそこに着く前に、緊張してしまうので、喫煙して、トイレで脱糞してから、その場に向かいます。

 

——森さんでも緊張するんですね(笑)。なんか勇気湧いてきました。

 性暴力やハラスメントの被害者だと、ただでさえ孤立しがちなのに、他人と喋ること自体が怖くなって悪循環になってしまうことがあるので、そういうひとでも安全に立ち寄れるような場所をリアルでつくれたらいいな。

 

 

もうやっちまうしかない!

 

——森さんとおしゃべりしたり、森さんの本を読んでいると、「とりあえず戦ってみようかな」と気軽に立ち上がる気になりますね。『もう革』でも「思考も実践も常にしていかねばならないし、生きている限り、ゴールしていかないといけない」(278頁)と書かれてましたが、やっぱり、思考だけじゃなく行動もしていかなきゃなって思いました。

 

 もちろん、無理に行動を起こす必要もありませんが、気軽にやってみたら、案外、勝ってしまうこともあります。グレーバーが運動は短期・中期・長期で見る必要があると言っていて、短期で見ると、確かに負けます。即座に謝ってほしいと言ってもすぐには謝らなかったりしますし、即座に原発は廃炉にと要求しても、なかなか要求は呑まれません。グレーバーが出していた例だと90年代末から2000年代の頭に反グローバリズムの運動の中で、即座にIMF(国際通貨基金)の廃絶を訴え世界中で抵抗のうねりが形成されました。即座廃絶どころかいまだにIMFはありますが、その運動の中期目標は実は実現しています。というのも、アルゼンチンの民衆蜂起の結果、国家にIMFの融資を断るどころか、今まで借りていた借財をデフォルトしてしまったということがありました。これは、事実上、誰もIMFを信用していない証左であり、そこからカネを借りると、こちらの財政再建の都合に合わせてカネを使わせてもらえないことが国家だけでなく、民衆もよく理解していたからです。だから短期的に見れば、IMF廃絶は負けていますが、中期的に見れば、あるいは別の角度から見れば、IMFは信用ならないということが全世界で共有されるようになりました。

 

↑ IMFへ抗議する人々

 

 この例から考えると昨今のBLM(ブラック・ライブズ・マター)にもそれに近いようなことを見出すことができます。レイシズムももちろん問題ですが、BLMの問題はヒエラルキー、ないし権力や権威です。僕たちを簡単に殺すことができてしまう馬鹿な警察官が権力を持ってしまうのは、やはり税金がそこに大量に投入されるからです。そこでBLMの成果で何がすごかったのかといえば、ある地域ではDEFUNDといって、警察への予算をなくさせました。警察制度は厳然としてありますが、その警察が暴走しないように、予算を削減させた。そしてもちろんこの間、アメリカの警察の権威などは無効化されています。誰も警察がまともだとは思っていない。警察は絶対的に市民の安全を守りますなんて思っている奴がいるとすれば、それはもちろん、ただのアホです。

 

↑ ペンシルベニアでのBLMマーチ

 

 だから、運動してみると実は、見方を変えれば、勝っちゃってるということがほとんどです。僕たちも運動をする過程で、たくさん友人ができたし、問題を共有することができる人々が増えたのは事実です。誰に相談していいかわからなく、孤独になり辛い状況になることからは抜け出せた。それだけでもまずは勝利です。

 

——それを勝利といってしまっていいんですね。わたしの件でも、大学の調査は満足のいく結果にならなかったけれど、それがあったからこそ逆に大学に不信感をもって立ち上がってくれた人もいるし、わたしの報道を見てあらたに声をあげてくれた人もいました。だから、わたしの一件だけに限って見ると「負け」かもしれないけど、長期でみれば勝ちまくってるのかも。そう思うと元気もでますね。

 そういう予期せぬ勝利があった反面、普段フェミニズムを率先して研究しているような一部のインテリが知らんぷりだったりしたのには正直がっかりしてしまいました。

 

 インテリは運動をやらない問題ですが、個人的にはインテリはインテリでその存在は重要だと僕は思っているので、必ず運動をしなければならないとは思いません。しかしながら、知恵はあるのだから、批判でも伴走でも褒めるでもなんでもいいので、何かしら言葉を発して、できることならば、運動を元気にしてあげることがその使命なのではないかとこの間、思うようになりました。同時に、知的な知恵も運動から出てくることもあるわけだし、そうした知的な産物は研究者にだって資することもあるはずです。もちろん、嫌なこともありますが。いずれにせよ、案外気軽にやってしまっていいのではないかと思ってます。

 

――気軽に声も発しつつ、気軽に運動にもジョインしていってほしいですね。

 今、わたしは裁判をやっていて、もちろん前面勝利という結果は不可能だし、妥協も必要ではあるんですけど、でもとりあえず戦ってみて、本当にいろいろ考え方がかわったし、そういう意味ではひとまずやってみてよかったです。『もう革』に書かれていた、「戦わなかったら、敗北しかないが、闘争すれば、勝利も敗北もある」(278頁)という言葉が非常に大事だなって思いました。

 

 先ほどのグレーバーの短期目標・中期目標・長期目標ではないですが、全面的に勝利の方へ転がることもあるかもしれない。そればっかりは、誰もわからない。ただ、行動を起こさなければ0か1どころか0です(まれに何もしないで勝利しちゃったなんて事例もありつつも)。しかし行動を起こすと0か1、あるいは0.5かもしれないし、不可知の数(そんなものがあれば、ですが)かもしれない。可能性は広がっていきます。可能性が広がることほど、面白いことはないです。あれもしたいし、これもしたい。人間、ずっとおんなじことだけなんて、やってられません。デジタルにもいい側面はあるのですが、しかしリアルこそが基盤にあることを忘れずに、リアルに根差しながら飄々と生きていく。それくらいが、楽でいいんじゃないでしょうか。とはいえ、むかつくことにはむかつくと、はっきり言いながら。やっちまうしかないですね!

 

  

 

 

 

 

 


  

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