シスターフッド——ちょっとだけしんどさをわけもつ
——結局、ハラスメントや性被害にどうやって対抗するか、というはなしになると、普段からうまく弱音を出す方法が大事なのかな。
川口 弱音というか、なんでもないときに「こういうことがあった」と言っておくことができる先が複数あるといいとは思う。タイミングや内容によって、今このひとには言いづらいけどこっちのひとには言える、みたいなことはあるからね。当事者は気づけなくても、外からは「それは明らかにおかしい」とわかることはあって、そう言われて気づいたら少しは対策を考えられるじゃない。誰かに言える、聞いてもらえる、自分も聞くよっていう関係性のゆるやかな網状の広がりが、わたしにとってはシスターフッドのイメージなんだけどね。
——「シスターフッド」って聞くと、わたしちょっと身構えちゃうんですよね……。単に「絆」みたいなものが苦手ってだけなのかもしれないんですけど。
川口 シスターフッドって、定義としては「女性どうしのゆるやかな連帯」だよね。なぜそれが必要かというと、男性中心で築かれてきた社会の中では女性がうまくやっていけない部分があまりにも多いからでしょ? ベースが男性だから女性はないものとして扱われがちで、考えや気持ちは無視されるか、勝手に都合よく決めつけられてしまう、そういうことを「しんどいね」と愚痴りあうところから始めればいいんだと思う。しんどさを共有しながら、これは個人の問題なんかじゃない、社会の問題としてそこにあるんだって実感すると、精神的にもずいぶん違うんじゃないかな。傷つけられたり、攻撃されたりしたとき、自分がわるいからだってひとりで抱えるんじゃなくて、これは今まで繰り返されてきた、他の女性たちにも起こったことで、女性特有の踏みつけられかたなんだって分かちあうことができれば、対処の仕方もきっと違ってくる。まずは、理不尽な場でなんとか生き延びるために手をとりあうようなことだと、わたしは思ってるよ。
そう考えると、「男性中心社会で生き延びるために手をとる人たちの連なり」ってことになるか。女性に限らない、ということになっていくのかも。誰とだって、利害や情報伝達ではない、くだらなくて意味のないようなことを楽しく話したり、いっしょにちょっとしたことをしたりする関係性が築かれていれば、そこで「こういうことがあってちょっと変だと思った」とか「ちょっと困ってるんだよね」とか、小出しにできると思うの。弱音とまではいかないことでもね、「えっそれはいやだねえ」とか「わかるなあ」とか、軽くケアし合うことができる。そんな関係性がゆるく広がっていたら、いざというとき転落防止の安全ネットになる気がする。
——そうですね。具体的にアクションを起こしてほしいというわけではなく。
川口 うん。問題を解決しようと動く以前の、ただ聞いてもらうことってわりと大事。話すために言語化すれば自分のなかでも整理されるし。聞く側にとっても、たとえば誰かが目の前でいきなりわーっと泣き出したら困惑するけど、その前から小出しに聞いていたことがあれば多少は事情を想像できる。日常的なやりとりのなかでそのひとを知っていれば、このひとがこんなになるってことは大変なことがあったに違いない、と腹をくくれる。そんなふうに、ちょっとだけしんどさを分け持ってもらえる先を思い浮かべられると楽かなって思うよ。1対1だと依存になりがちだし、負担も大きいから、複数ね。
——わたしは「先生には弱いところを出しても平気だ」というのがわかったので小出しにさせてもらってます。
川口 わたしもAさんに愚痴ったりしてる(笑)。
——お互いに(笑)。先生とはよくメールで相談や雑談をしていますが、そのやりとりで助かっているのは、「ちょっと今忙しくて返事遅くなります!」とか「わたしもヘロヘロ〜」とか(笑)、逐一伝えてくださるんで、「いまは先生に頼らないほうがいいかも」と判断して、別のところに頼ったりできるんですよね。あと、わたしがバーっとメール送っても、大事な用にはすぐ対応してくださるけど、忙しい時はスルーしてもらえるので、頼ってもあんまり罪悪感がない。それはすごい楽です。
川口 うん。いつでも頼ってきて!と言えるような存在でありたい気もしないではないんだけど、わたしは自分を高く見積もらないことにしているので(笑)、平気でAさんに「今週は余裕がなくて無理ー」とか言っちゃう。
——普段から先生とは、運動のことに限らず、家族のこととか介護のこととか、友人・恋愛のこととか、いろいろまぜこぜにお話しして、ある程度お互いの状況が見えやすいから楽なのかな。結局、全共闘のときにリブが派生したのも、生活とか身体の部分が、活動家の男性たちに切り捨てられてきたからなのかな、って気がしていて。
川口 男性中心の社会の価値観では、「おんなこども」が好きなものや大事にしているもの……というか「おんなこども」そのものが、取るに足りない、役に立たない、劣ったものとして、軽く笑って切り捨てられてきたんだと思う。だからね、そういうものこそ大事にする視線を持ちたい。「連帯」っていうと強固な組織みたいなイメージになるけど、むしろゆるーっと、これ大事だよねとか、いいよねとか、それってわたしはちょっと違うなあとか、まぜこぜに話しながらやっていけるといいな。どうでもいいようなことやくだらないこともね。こぼれ落ちるものを掬い取るような……詩の言葉と、そこは似ているかもしれない。そういうものの集積でこの世界はできているんだと思うし、そういうものによってわたしは生きている気がしてる。
運動内の人間関係——誰かを丸ごと助けることはできない
——最後になりますが、運動をやっていくときって仲間内でのパワーバランスもむずかしいなって感じます。ある特定の被害者の人がいて、それをサポーターが支えるような運動の場合、「助けてもらってる身分だから何も言えない」と上下関係ができてしまったり、共依存に陥ってしまったりもするし。
↑栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社、2019年)は、普段あまり語られることのない運動内でのハラスメントや人間関係にも焦点を当て、「むしろ運動の中の人間関係がうまくいかないからこそ、いわゆる「社会問題」の解決も遅れているのではないか?」と指摘する。
——日本初のセクハラ裁判として有名な福岡の裁判でも、「原告A子」だった方が、弁護士団との心理的なすれ違いが苦しかったということをのちのち吐露しています。あと、京大・矢野事件の被害者の方は、味方の人から質問されただけでも、「信じてもらえないのではないか」という不安からたびたび“爆発”してしまったことを手記に書いてるんですよね。性被害ってたいがい、まずは疑ってかかられるし、告発しても「嘘つき」呼ばわりされたりして、被害そのものだけでなく二次被害によっても深刻な人間不信に陥りやすいから……
——やっぱ、被害者って常に機嫌がいいわけじゃないし……
川口 もちろんだよ!
——わたしもエッセイに「いい社会にしたい」みたいなキレイごと書きましたけど、実際には「世界滅びろ」って呪うこともあるし、反論がきたり裁判にいったりするとめちゃくちゃメンタル落ちるし、まわりの友達はみんなバリバリ仕事してるのに自分だけいつまでも過去に取り残されるように思えて「あーもー戦うのやめたい」って放り出したくなることなんかしょっちゅうです。それでも被害者が戦いつづけられるかは、いかに周りが消えないでいてくれるかにかかっているんじゃないかな、って。
そもそもハラスメントって、信頼関係をぶち壊されるという被害なので、ここでまた孤立したら人間不信の悪循環から抜け出せなくなってしまう。どうやって他者への信頼感を取り戻しながら戦っていけるか、というのもひとつの課題です。
川口 そうだよね……。わたしは神サマじゃないから、誰かを丸ごと助けてあげることはできないんだって、最初から諦めというか、諦念のようなものを持っているんです。超人的な力があればすべてを正してあげられるかもしれないけど、そんな力はない。わたしも同じ人間だから、できることしかできない。ゆるく結んだネットのひと筋分くらいでしかない。そう思って、過剰に背負い込んだり気負ったりして無駄に疲れることがないようにしています。それに、さっき言ったように、自分の問題だと思ってやっているから。Aさんの問題ではあるんだけど、Aさんのためにやってあげてるんじゃない、わたし自身の問題なんだよ。だから、無理して何かをしている感じはない。それで続いているかな。
——なるほど。「やってあげてる/やってもらってる」という意識がでてきちゃうと、結局その関係は長続きしないのかもしれないですね。自分の問題として関わるということが運動を続けることには必要なのかな。
川口 うん。これを途中で投げ出したら、わたしはわたしを嫌いになっちゃうからね。誰かや何かのため、じゃなくて、自分のことだから、と思えるかどうかが大きいんだろうね。
裁判にのぞむこと——何も言えなかった自分を上書きする
——わたしがなんで裁判をしているのかというのも(理由はいろいろありますが)、これで戦わなかったら自分が信頼できなくなるから、というのは大きいです。もちろん戦うことを無理強いする必要はないんだけど、長期間にわたるハラスメントだと心理的に支配されてしまっていることが多いので、支配被支配関係から抜け出して、明確に自分の意思をもって、「抵抗する」という行動をとること自体に意味があるんだと思うんです。
『「モラル・ハラスメント」のすべて』という本でも、裁判の勝ち負けだとか金額や形式上の勝ち負けにこだわるのではなく、「自分はやれるだけのことはやった」と思えることが、その人がその後の人生でも自分で意思決定できるようになっていくための支えになると書いてあって。
——わたしも、それまでの人生で性暴力にたくさんあってきたけど、昔の先生と同じように、かわしてばかりでした。でも、自分で自分を守れなかった記憶ってものすごく深く傷になるし、そのせいで「こんなわたしなんか被害を受けて当たり前」というマインドができてしまうと、どうしてもまた被害を受けやすくなるんですよね。なので今回、性被害に対して戦ったことは、その悪循環の鎖を断ち切ることにもなっています。
それに今、こうやって大学院のときの体験を、何度も何度も繰り返し語り直す過程で、それまで見過ごしてきた過去の自分も救っているような気になるんです。自分が不当な扱いを受けたということを、ちゃんと言語化して他者にわかるように説明したり、加害者の言い分を客観的に分析して反論を書いたりするということは、心理的な盾をつくることにもなる。それができただけでも、わたしにとっては大きな進歩です。
川口 今回、何人もの方が書いてくれた陳述書を読んで、すごく心強い気がしたよ。渦中にいたときははっきり意識できなかったことを、それぞれが捉え直して、言語化して、この裁判で原告の立場に寄り添う、と決めたんだなとよくわかった。裁判をやった意味がここにひとつあるのではないかと思えました。
——そうですね。わたしのそばでみていた友人たちも、この3年間、それぞれ考えたり苦しんだりしていて、その結論として、リスクを背負いながらもわたしに寄り添うことを選択してくれた。戦力的にどうこうという以上に、単純にみんなとまた一緒に遊べるようになって嬉しかったです。
運動をしていくなかで、いろんな人と対話をしていて、うまくいかないことももちろんあるし、傷つくこともあるんですけど、でもわたしと関わったことが相手の中に小さなトゲとなって残ってくれればいいなって思うんです。わたし自身、10年前、他の人がすぐそばで声を上げてたのにスルーしてしまったようなことを、今になって思い出したりしてるから。
川口 たとえ個別の裁判には勝てなかったとしても、ほんの少しずつ社会通念というものは変わっていく、それを加速させるきっかけのひとつには必ずなるはずだから、長期的に見れば、そういう変化を起こしたこと自体で勝ちだって、わたしは思ってるよ。訴える人がいるんだって見えるのは大きい。陳述書のようにはこちら側から見えなくても、影響は確実にいろんなところへ広がっているんじゃないかな。
わたしはこういう裁判に関わるの初めてで、何を望めばいいのかもわからないくらい。とにかく、Aさんが裁判を通じて何かを得るといい、って願ってる。事件でAさんが失ったものはすごく大きいから——時間とか、機会とか……埋め合わせることなんてできないけれど、新しく何かを得て、それがちゃんと残った、という気持ちになるといいな。
——うんうん。
川口 で、わたし自身は、20代のOLの頃に何も言えなかった自分を上書きできるといいな、と思う。
*川口晴美さん新刊 『やがて魔女の森になる』(思潮社)発売中
“森は遠い
学校の制服はどんどん窮屈になる
誰かが話すのを笑って聞いているフリばかり上手になって
どこにいてもどこかが痛かったはずなのに感じなくなっていくから
ほんとうは少し泣きたい“
——「世界が魔女の森になるまで」
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