1 受験前~入試(2015年夏〜)

 

 わたしは2013年に██大学を卒業しました。法学部で法律を専攻していましたが、文学を学びたいという思いがあったので、卒業後は就職せずにすぐに結婚し、専業主婦をしながら独学で文学を学んでいました。その頃から██大学の文学部の授業に聴講に行くようになり、2015年の春には同文学部に入学しました。

 ある日、他の学部生に混じってゼミを受けていたときに、研究者の先輩から「大学院を受けてみたら?」と言われました。わたしは文学を体系的に基礎から学んだ経験がなく、一方で、学部の授業に少し物足りなさも感じていました。2014年頃からわたしは詩人である川口晴美さん(甲53号証)の社会人向けの詩の講座に通っており、自分が目指しているのは研究職ではなく創作者の道であるということははっきりと自覚していました。授業を受けることで作家になれるわけではなくとも、現役の作家の元で学び、わたしと同じように創作の道を志す学生達と出会えるのならと思い、日本で創作科のある大学院をいくつか調べ、そこで教鞭をとっている作家の作品を読みました。その中でもっとも感銘を受けたのがHさんの小説でした。わたしはこの人のもとで創作を学ぶことで自分の創作者への道を切り拓きたいと考え、H氏の所属するコースを受験することに決めました。それが早稲田大学文学学術院現代文芸コースでした。

 その時点で受験まで3ヶ月を切っていました。入学試験に向けての準備の他、研究計画書と卒業論文を提出しなければなりません。研究計画書は、わたしが愛読している村上春樹やユング派の河合隼雄らの思想に基づいて詩の創作を行うという大筋で書きました(甲24)。わたしは法学部出身だったので文学の大学院に提出できるような卒業論文をもっていなかったのですが、募集要項によると卒業論文には創作も含まれるということでしたので、ならば新たに書こうと思い、作品を書き始めました。

 8月の終わりにわたしは原稿用紙90枚ほどの作品を書き上げ、研究計画書とともに提出し、9月21日に一次試験を受け、合格しました。一次試験は半分以上の受験生が通過しているようでした。

 二次試験は27日でした。他の受験生らとともに待機室で面接の順番を待っていると、助手からA4一枚の紙を配布されました。簡単なアンケートでした。わたしは希望ゼミの欄には「Hゼミ」と記入し、研究計画の欄には「批評理論に基づかずに創作をしたい」という旨を書きました。

 昼前にはわたしの番になりました。ドアを開けると教員たちが10数名向こう一列に並んでいました。女性は端っこの方に一人だけでした。真ん中には一人、机一個分前に飛び出して、初老の男性が座っていました。両腕を組み、足を前に伸ばして、貧乏ゆすりをしていました。それを注意する教員はおらず、圧迫面接みたいだ、と感じました。文学はそういうものとは対極にあると思っていましたので、わたしはその雰囲気に少し幻滅しました。

 簡単な自己紹介がすむと、はじめに研究計画について尋ねられました。わたしはアンケートで書いたのと同じように「批評理論に基づかないで創作をしたい」と答えました。すると、真ん中の席に座っていた初老の男性が急に身を乗り出して、「それはWのやっていることはダメだということか?」と聞いてきました。このときはじめてわたしは「ああ、この人がWか」と認識しました。

 わたしはもともと村上春樹やアメリカ文学作品を中心に読んできたので、日本の現代文学に疎く、日本の文壇事情もほとんど知りません。受験前に教員達の著書を調べていた際、W氏の著書も手にとってみましたが、村上春樹が痛烈に批判されていてわたしの考えとは相入れず、この教員のゼミとは無縁だろうと思いました。また、W氏の著書には専門用語が多く使われており、村上春樹の標榜するように「最も簡単な言葉で最も難解な道理を表現する」(『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋、2010年、29頁)ことを目指しているわたしには、W氏の表現方法は合わないと感じていました。

 教員達はみな、手元にある書類を見ながら話をしていました。わたしの座っていたところからは見えませんでしたが、質問の内容から察するに、先ほど提出したアンケート用紙か研究計画書のようでした。好きな作家について尋ねられ、わたしは数名のアメリカ文学の男性作家の名前をあげました。一人の教員から「つまり村上春樹ってことね」と言われたので、わたしは続けて補足しました。最後にシルヴィア・プラスの名前をあげると、W氏が笑いながら「シルヴィア・プラス?」とおうむ返しにいいました。他の男性作家についてはスルーなのに、なぜシルヴィア・プラスは笑われるのだろう、とわたしは不審に思いました。なお、このように二次試験の際にW氏が度々受験生の挙げる作家を否定したり、高圧的な態度を取っていたことは、██さん・██さんらの証言からも明らかです(甲46、48ほか)。

 他の教員から「イアン・マキューアンの後期作品についてどう思うか?」といった質問がなされたのち、話題はわたしの職歴へと移りました。大学卒業後は専業主婦をしていた旨を告げると、W氏に「結婚しているの?」と聞かれ、わたしはすでに離婚していましたので、その通りに答えたところ、それまで黙っていた男性が吹き出しました。それが██氏であったことは後で知りました。人の経歴を聞いて笑うというのは失礼なことだと思いますが、誰もそれを注意する様子がないのがやはり気になりました。

「Hゼミ希望ということですが、H先生から何かありますか」と話をふられ、H氏からも2、3質問がありました。創作の経験を尋ねられ、わたしが川口晴美さんの教室で詩を書いているということを告げると、自身も詩人である██教授が話に入ってきて、川口さんと面識があるということがわかり、少し和やかな雰囲気になりました。

 最後に「Hゼミは希望者が多いから希望通りにはならないことがある」という説明をされ、わたしは落胆しました。H氏のもとで学びたいという人は大勢いて、わたしは詩を書いているとはいえまだ初心者と判断されるかもしれず、選ばれないのではないか、と考えたからです。

 落ちたな、と思っていると、唐突に、「君は何もわかってないから聴講にきなさい」と言われました。W氏でした。わたしは面食らいました。まだ面接中にもかかわらず、なぜ他の教員と相談する様子もなく一人の教員の判断でそのような指示が言い渡されるのか、不可解に思いました。続けてW氏は、今から春までみっちり勉強しなさい、そうしないと他の学生に追いつかない、俺の授業にきなさい、わからないことがあったら助手に聞きなさい、ということを言いました。「つまりそれって合格ということ?」とわたしは不思議に思いましたが、それで面接は終了となりました。

 わたしは会場を出てすぐ外にいた助手に、どこで授業の情報を見ることができるか尋ねました。授業の情報はwebのシラバスから閲覧可能だし、現代文芸コースには論系室という部屋があるので、昼過ぎにそこに行けば常に助手・助教・院生のいずれかがいて、必要な情報は教えてもらえるとのことでした。

 家に帰ってシラバスを調べると、W氏の講義は翌日の3限から開始予定でした。合否が決まっていない状態で行っても大丈夫なのかと不安ではありましたが、聴講に来るように言われているということはきっと合格なのだろうと思い、翌日から聴講に行くことに決めました。

 

 

 

2 聴講開始(2015年9月28日)

 

  翌日の午前中に2次試験結果の通知が出ました。合格でした。しかしわたしは前日の面接の雰囲気がなんとなく気にかかっていて、素直に喜ぶことができませんでした。10時44分、メールで家族に合格の旨を送り、入学は考えたいと伝えました(甲25)。

 昼休みに論系室に行った際、昨日の助手と、わたしの1年先輩にあたる██くん(甲47)に会いました。██くんは小説家でHゼミ所属だということだったので、「じゃあ同じゼミだ」とわたしが言うと、助手が「AさんはWゼミになったみたいだよ」と言いました。「え、Wゼミって批評ですよね?」とわたしは動揺しました。わたしは村上春樹が好きだし、創作志望だし、そんなことはないはず、きっと何かの間違いだろうなどと、3人で話しながら座って昼食を食べていると、当のW氏が部屋に入ってきました。

 W氏はわたしの姿を認めると、「わっ、いる!」と言いました。昨日の今日で来るとは思っていなかったようで、「今日すでにここにきていることが才能だ」と言い、それから続けて「君のことは俺が面倒みることになった」と告げました。何か聞き返す間も無く、W氏の研究室までついてくるように言われたため、わたしは食べかけの昼食を鞄にしまってついて行きました。

 W氏から言われたのはこういうことでした。試験で君は点が足りてなかった。一次試験の結果だけからすれば君は落ちているはずだった。他の教員は君を合格にすることに反対していた。誰も君をとろうとはしなかった。でも俺は君には見込みがあると思ったから自分のところで引き受けて面倒をみることにした。俺がいなかったら君は受からなかった。——後から考えると、そのようにこちらを否定し能力の低さをことさら強調した上で恩を感じさせる話し方をするのは、W氏のいつもの手口だったようですが、このときのわたしは恐縮するばかりでした。

 W氏は、君には入学まで死ぬほど勉強してもらう。そうしないと春からの授業にはとても追いつかない。君は何にもわかってない。文ジャ(※ 文芸・ジャーナリズム論系のこと)の学生なら当然知っているようなことも全然わかってない。これから大変だから覚悟しとくように。見込みがないと思ったら俺はすぐ見捨てる。そう言いました。わたしは随分厳しい人のところに配属されてしまったなと思い冷や汗が出てきました。そうこうしているあいだに3限の授業が始まる時間となり、W氏と教室に向かいました。教室の前方に██くんを見つけたのでわたしは隣に座り、W氏は教壇に立つと、「誰かティッシュ!」と言って手を前に差し出しました。ガムを噛んでいてそれを出したいようでした。教員がそんな暴君のような振る舞いをすることに呆然としていると、隣の██くんが黙って立ち上がり、教壇までいってポケットティッシュを渡しました。

 はじめてきくW氏の授業はテンポがよくてパワフルでした。大股で教壇を闊歩し、黒板にキーワードとなる言葉を殴り書きし、決め所になると一歩前に踏み出してドンと足を踏み鳴らす。予備校の人気講師がやるような授業だと感じましたが、図や式を用いて作品を分析する文学の授業などそれまで受けたことがなかったので、わたしには新鮮に思えました。

 しかし、後半になると、村上春樹の批判がはじまりました。W氏は「村上春樹なんて田舎者の文学」だと言い、学生たちはそれに対して笑っていました。この場所はわたしにとってまったくのアウェイなのだと痛感しました。

 初日からこれなのに、わたしはこれからここでやっていけるのだろうかと不安になりました。村上春樹を敬愛しているわたしが、村上春樹に対して極端に批判的なW氏のゼミになってしまって精神的にもつだろうか。わたしは批評をやるつもりはないのに大丈夫なのだろうか。Hゼミでなくて創作を学べるのだろうか。また、Hゼミに入れなかったことはわたしにとって大変ショックなことでしたが、希望のゼミに入れないのはわたしの能力が低いせいであって、W氏がとってくれなければ合格すらできなかったのだから、いわれたことをただひたすらやるしかないと自分に言い聞かせました。

「俺がいなかったらお前は受からなかった」などの発言をW氏はこの裁判では否定していますが、現代文芸コース█期生にあたる██さんは、W氏から受験後に「██くんのために〇〇を試験問題に入れた」などと試験問題に便宜をはかってやったと思わせる発言をされたと証言していますし、他の学生に対しても「自分の力で入れてやった」という同様の発言がなされていた事実を証言しています(甲23証)。どんな言い方だったにせよ、W氏は学生に対し、必要以上に恩義を感じざるを得ない発言を繰り返していました。このように上下関係を強く意識させるような発言は、支配的な関係性を強化することに容易に繋がります。

 早稲田大学は、W氏がわたしに対して「自分以外の教員は入学に反対していた」または「あなたに期待しているので、かけて私がとった」と告げたことを認めた上で、「W教授としては、期待して合格にした旨を伝えたものと考えられるが、申立人にとっては、W教授がいなければ合格しなかったという印象を与えるもので、コミュニケーション上のギャップを生じさせた原因である。これが、全ての様々な事象の基盤になった可能性がある。」と述べていますが、これは個人間のコミュニケーションのギャップなどという問題ではなく、学生教員間という地位の差異を利用した情報の歪曲であり、通常の学生教員間の力関係を超えた大きな関係性の勾配を生じさせるねらいが潜んでいます。早稲田大学は「他の教員は皆反対していた」というのが虚偽だとは認められなかった、などと主張していますが、大事なのはそこではありません。仮にそれが本当であっても、面接の内部事情を教員は学生に話す必要はありません。

 2021年9月には、大学という組織のなかで生じた不均衡な権力関係にもとづくハラスメント行為を、「個人間のこと」と報道で述べた上智大学に対して、多くの抗議の声が集まり、学生団体により意見が提出されています。このようにハラスメントを、個人間の問題として矮小化されることで、被害者がさらに苦しむこととなっているという構図をまずは知っていただきたく思います。

 W氏は準備書面(令和3年7月1日)の中で、「他の教員は申立人の入学に反対していた」「あなたに期待して、私がとった」といった言葉は「がんばって勉強して欲しい」との激励の意味で告げたもので、恩に着せたり、囲い込む意思はまったくなかったと主張していますが、「がんばって勉強して欲しい」のなら、ただそのように伝えればいいだけのことで、恩着せがましい発言は不要です。にもかかわらずこのような言い方をわざわざ選択しているのは、支配的な言動がもはや意識・無意識にかかわらず自然と出ていたことのあらわれでしかなく、それはまさに性暴力加害者の特徴といえます。

 性暴力にはその多くに兆候が見られます。準備書面6ですでに主張したとおり、『性暴力被害の実際』(甲58)においては、性暴力被害として最も多い「エントラップメント型」として、加害者は日常的な関係性や会話の中で、相手に対して自分の権威を高めるような言動、相手を貶めるような言動をし、上下関係を作り出し、精神的に弱らせることで、逆らうことができない状態に追い込み、逃げ道を遮断し、突然性的な要求を挟み込む、という共通のプロセスがあることが明らかにされています。なお、職場や学校などといった、そもそも加害者が相手よりも社会的地位が高く、すでに上下関係が存在している場所では、エントラップメントは容易に進行されやすいことも指摘されている通りです。性的支配に先立ち、恩を着せるような言動、自尊心を傷つけるような行為がなされるというのは、『キャンパス・セクシュアルハラスメントガイドブック』でも指摘されています(甲19、準備書面2)。W氏は明らかに、学生であるわたしに対して自身の権威を高める言動で恩を着せ、わたしを貶めて自尊心を傷つけ、通常の学生教員間よりも大きな勾配の上下関係を作り出してわたしが逆らえない状態へ追い込んでいきました。

 W氏は、この裁判で「俺の女にしてやる」という発言以外のハラスメント加害を否定していますが、臨床心理士でありDVや虐待についての専門家である信田さよ子氏が書かれているように(甲61『「よきことをなす人」たちのセクハラ』)、「プロセスそのものが性加害」なのです。わたしの場合、入試の段階からエントラップメントという囲い込みの過程がはじまっていたと考えられるでしょう。

 

 

 

3 授業の指示と作品の講評 (2015年9~10月)

 

 W氏からは聴講すべき授業を細かく指示されました。

 W氏の学部の授業を週3コマと大学院のゼミ。それからW氏の弟子にあたる██氏の学部の講義と演習。W氏はわたしの“時間割表”に次々と書き込んでいきましたが、H氏については言及なしでした。「Hゼミは出ていいんですか?」とわたしが聞くと、「出たければ出たら?」と軽くあしらわれました。W氏によるとH氏は「何も教えてくれない冷たい人」とのことでした。なお、このように、周囲の人間の悪口を吹き込み、自分だけが頼りであるということを狙った学生に繰り返し教え込んで、他の教員に対する不信感を植えつけるとともに、自分に対する依存心を高めさせるのも、セクハラ加害者によくみられる特徴として挙げられています(甲19の63頁)。

 もともとわたしは、その秋から██大学のあるゼミに参加する予定で、そのゼミの先生にすでに挨拶に行っていました。でもW氏に指定された時間割だと、そのゼミのある木曜日はW氏の授業に出なくてはならず、██大学にいくことは不可能です。自分から頼み込んだ経緯があったので辛かったのですが、参加を断念し、わたしはゼミの先生に謝罪のメールを送りました(甲52)。W氏の指示に背く余地などありませんでした。 

 合格したことを告げると、多くの人が祝福してくれました。ただ家族は、わたしのプライバシーに関わることを面接の場で聞かれたという事実に対して、はっきりと違和感を抱いたようでした。なぜ文学と関係ないことを聞くのか、それを聞くだけでハラスメントではないのか、なぜそれを誰も止めないのか、そんな指導教員で大丈夫なのか、専門分野の違うゼミに一方的に配置させられてしまうことはおかしくないのか、そう思っていたけれどお祝いごとに水を差すようでわたしにはあまり強く言えなかったようです。

 詩の師匠にあたる前述の川口晴美さんも、わたしの指導教員がW氏になったということを聞くと「あの文芸批評家の?」と驚いていました。受験を考えはじめたときから相談にのってもらい、提出する作品も事前に読んでコメントをもらうなど協力してくれていた川口さんは、W氏が指導教員となったことに対しては、非常に懐疑的に思われているようでした。わたし自身も、創作志望の自分がどうしてWゼミなのかわからない、と困惑の気持ちを伝えました(甲53)。

「早稲田の大学院に一発で受かるなんてすごい」と周りの人たちは言ってくれていましたが、わたしはそもそもどうして自分が合格になったのかがよくわかりませんでした。W氏によれば、点数も足りていないとのことだったし、二次試験でも「何もわかっていない」と言われました。創作のキャリアはおそらく受験生の中で一番短いし、ただの研究計画書がそれほど評価されるわけもありません。とすると、受験の直前に書き上げて提出した作品が評価されたのでしょうか。消去法でいくと他には考えられませんでした。

 ですから、聴講をはじめて1週間たたないうちに、W氏からその作品を再度提出するよう言われたときは、「まさか読んでいなかったの?」と信じられない気持ちになりました。

 この裁判の過程で、W氏はわたしが村上春樹らを創作のよりどころにしていたかどうかは「不知」であったとしていますが(被告W答弁書4頁)、受験前に提出したわたしの研究計画書(甲24)には村上春樹らの思想をよりどころにしていること、創作に活かしたいことが書いてありました。W氏の主張が正しいとするなら、W氏はわたしの研究計画書も作品も読んでいなかったことになります。入試選考の過程の異様さについては9章で詳しく述べますが、だったらW氏は何を判断基準にわたしを合格としたのでしょうか?

 とにかくそのときは、命じられた通りわたしは作品を再提出しました。

 翌週、先輩たちと喋りながら論系室に向かって廊下を歩いていると、ちょうど部屋から出てきたW氏とすれ違い、あとで研究室にくるように言われました。唐突なのはいつものことでしたが、W氏はひどく憤っていて、覚悟しておくように、と念を押されました。わたしはW氏が見えなくなったあと、先輩たちに向かって、思わず「こわい」と呟きました。その前の週、提出しにいったときのW氏は機嫌がよく、帰宅後も「引き受けた以上、貴女の今後を楽しみにしていますが、あまり飛ばしすぎてパンクせぬ程度に頑張って下さい」とのメールが送られてきていました。どうして1週間でまったく正反対の態度を取られるのかわけがわからなくてわたしは不安になりました。なお、罵倒と賞賛がランダムに飛んでくることによって、学生が混乱し、びくびくしながら教員の言いなりになってしまうということも、『キャンパス・セクシュアル・ハラスメント対応ガイド』(甲19、63頁)で指摘されていることです。

 休み時間、わたしは恐る恐る研究室にいきました。机を挟んで向かいの椅子に座りました。W氏は険しい顔をしていましたが、やがてわたしの原稿を机の上に放り投げ、「箸にも棒にもかからない」と言いました。いい出来と自信を持っていたわけではありませんが、切って捨てるような最初の一言にショックを受けました。W氏は激怒していて、「何で俺が怒っているかわかるか?」と聞かれました。わたしは誤字脱字があったせいかと思って謝りましたが、そのことではないようで、W氏はじっと腕を組んでわたしの顔を睨んでいました。わたしは必死で考えを巡らせ、しばらくして、もしかしたら、と思い当たりました。

 何回か前のW氏の授業では、人の死や病といった題材を、物語の落差を作り出すための「えさ」にするな、ということについて強調されていました。もしかしたらわたしも作品で人の不幸を利用したと思われたのかもしれない。しかしわたしが提出した作品は、幼い頃わたしの一家に実際に起こったある出来事をもとに描いたものでした。また、そこには幻覚の描写もありました。それもわたしが実際に体験したものでした。

 W氏は原稿を指差しながら、「実際にこういうことがあったわけ?」と聞いてきました。わたしは答えたくなくて逡巡しましたが、思い切って「ありました」と答えると、W氏は「そう」といって、表情が急に優しくなるのがわかりました。極端な反応だな、と思いました。この作品が実体験に基づいているかもしれないという発想はみじんもなかったのだろうか? わたしが人の不幸を「利用」したのだと憶測で決めつけていたのだろうか? 不幸を「利用」するのではなく、不幸について「表現」しなければ生き延びることのできない人間もいるとは想像できないのだろうか? 不幸について書くやつは人の不幸を利用しているだけ。そういう発想になるのであれば、この人は、悲劇を体験した人間は何も特別な存在ではなく、日常の社会のどこにでもいて、ほかの人と変わらず普通に暮しているのが大半だという認識がないのだろうか? だとすればあまりに他者への想像力が乏しいのではないだろうか? そんなことをわたしは思いました。

 W氏はわたしの家族の事情についてさらに質問しました。わたしは答えたくありませんでしたが、仕方なく答えました。それから「幻覚のシーンは悪くなかった」と言われ、「今もこういう症状はあるわけ?」と聞かれたので、わたしは「ありません」と言いました。それは本当です。もちろん幻覚のシーンも自分が経験したことをそのまま書いているわけではありません。創作者として描写していることです。なのに過去のプライベートなことと一方的に解釈され、決めつけられるのは嫌でした。そういうことを他人に知られるのはとりわけ嫌でした。でもW氏はさらに立ち入ってきました。「セラピーいってんのか?」「急に発作になったりすることはあるの?」わたしは否定しました。「急に俺の前でおかしくなったりされたら困っちゃうよ」とW氏は笑いました。なんて偏狭な考えしかもっていないのだろう、しかも他者の経験した困難を笑ってすませるなんて、と腹が立ちました。なんでこんなにプライベートなことまで聞かれなくてはいけないのだろう。作品の講評に必要なのだろうか。それに作品で書かれていることを書き手の現実と直に結びつけるなんて、もっとも初心者的な読み方ではないだろうか。これって本当にまともな講評なんだろうか。わたしは怪訝に思いましたし、W氏に自分の弱みを握られてしまったのではないだろうかと不安になりましたが、さすがに大学院の教授なのだから学生のプライバシーを守るくらいの節度はあるだろうと信頼することにしました。

 そのあとW氏は、「お前がまともなものをかけるようになるには最低2年はかかる、2年間死ぬ気で勉強してそれでも書きたかったらそこではじめて書け」ということを言いました。講評はそれで終わりでした。

 廊下を歩きながら、返された自分の原稿をぱらぱらとめくると、二箇所ほど赤字で×印が書き込まれていました。90枚の作品の中で書き込まれていたのはそれだけでした。

 今思うと、学生に自作のどこが未熟だったのかを考えさせるのではなく「俺が怒っているのはなぜか」を考えさせること自体、適切な指導法なのか疑問です。これが繰り返されれば、学生は先生の思考をトレースし、先生が怒らないよう、先生の意向に沿う作品を書こうとするようになります。それは独創的な創作行為とは対極にあるものです。それに、理由を言わずに不機嫌になったり怒ったりして相手に気を遣わせ機嫌をとらせるのは、DV加害者に典型的な振る舞いではないでしょうか。 

 

 

 


4 村上春樹・ユング派・河合隼雄批判(2015年9〜10月)

 

 わたしはW氏に指定された全ての授業に出て、毎週5日聴講に通いました。家から早稲田駅までの定期券も買いました。週5日の早稲田のほか、██大学の授業や川口さんの詩の教室にも毎回参加していたので、授業の合間に宿題やプレゼンの準備をしたり、文学理論や批評や文学史を勉強したりしていて、大変忙しかったのを覚えています。

 W氏は毎回わたしが出席しているか気にかけているようでした。わたしが休んだ際には、他の学生にわたしがなぜ来ていないのか聞いていたというのは、██くん・██くんも述べるところです(甲47、49)。あるとき、祝日だったために休講だと勘違いして行き損ねてしまったときは、W氏に次に顔を合わせた際、「お前来なかっただろ? 早稲田だと祝日も授業なんだよ」と言われました。大教室の授業なのに、よくわたしが休んだと気づいたなと思いました。わたしが授業をほとんど全部タイプしているのも知っていて、「全部ノートにとる必要はない」といわれたりもしました。見られているんだ、と思いました。

 学部での講義にはついていけましたし、W氏の説明は概ねわかりやすかったです。でも大学院のゼミは他の学生達はみんなそれほどノートもとらず活発に発言しているのに、わたしはいつも黙って一人ノートをとって遅れないようについていくだけでした。いつまでたっても批評の言葉というものが身に添わず、わたしは自分という人間が批評には向いてないという思いを強めていきました。

 わたしはそもそも創作をしたいという思いで受験していて、文芸批評家を志したことは一度もありません。面接でもはっきり「創作がしたい」と述べたのに、なぜ批評の勉強ばかり強いられるのかわかりませんでした。W氏の『日本小説技術史』や、ゼミで使用する『日本近代文学評論選』を読んでも全く頭に入ってこないため、自分には批評というものが向いていないという確信が強まるばかりでした。熟読してもぴんとこない文章に日々苦戦し、批評の修士論文しか認められていないWゼミにいて、このままで自分は修論をかけるようになるのだろうか、自分の本当にやりたい創作はできるのだろうかと、わたしのなかには焦りが募っていきました。

 それに加えて、週4回受けているW氏の授業では、ほぼ毎回、村上春樹とその愛読者に対する批判や悪口を聞かされることとなり、わたしは精神的に追い詰められていきました。W氏は初回同様「村上春樹なんか読むのは田舎者」と笑いものにし、ときには村上春樹のことについて「死ね」と言うこともあり、それはもはや批評ではなくただの人格否定ではないかと思いましたが、村上春樹批判はW氏の十八番だということでした。

 嘲笑の矛先は、やがてユングやその思想へと向いていき、言い方が断定的になっていきました。「集合的無意識は全体主義につながる恐れがある」ではなく「集合的無意識は全体主義」と言い切られるようになりました。ユングの思想への批判ではなく、「ユング派ではバカしか治らない」「ユング派にはバカしかいない」とユング派の人間をけなすようになっていきました。断定と推論は異なるものですが、W氏にはその二つを使い分けることができないようでした。

 ユング派批判は執拗につづきました。そして著作や思想に関して何の言及もないまま、河合隼雄の名前もあげられるようになりました。最初に授業で河合隼雄の名前がでたときはあまりにも唐突だったので「なんで今の流れで河合隼雄の話になるの?」とびっくりしました。村上春樹とユング派の河合隼雄の思想が近いことは広く知られていることですが、村上春樹が小説家である一方、あくまで河合隼雄は心理学者です。文芸批評の授業で直接攻撃の対象とされるような存在ではありません。わたしは研究計画書(甲24)で自分が河合隼雄の思想に傾倒していることははっきり書いていましたし、これはその場にわたしがいることをわかったうえでなされている発言だと感じました。

 それからW氏は「村上春樹・河合隼雄・ユングは魔のトライアングル」と言いはじめました。「こいつらは最低のライン」「バカばっかり」。河合隼雄批判に関してはもはや何の中身もありません。大教室の学生たちが笑っていましたが、わたしはまったく笑えなくなって、笑い声があがると下を向きました。わたしは河合隼雄の本を読むことで救われてきましたし、一緒に河合隼雄の勉強会をするようなユング派の方たちとも親しくしていました。わたしは踏み絵をさせられているような気分になりました。たしかに直接的にはわたしの名前は出されていません。でもそれは間接的にわたしやわたしの大切な人がバカだ、無能だ、と言われ続けているようなものでした。

 わたしには逃げ場がありませんでした。週4でW氏の授業を聴講にいかなければ入学することができないと言われているのです。わたしの周囲には、大学院に行きたくても経済的な理由から諦めて就職した人もいます。それを考えたら、恵まれているわたしが、弱音を吐いている場合じゃない、頑張って耐えなきゃ、やっと自分の好きな道を歩めることになったのだから、ここで負けたくなんかない。それが当時わたしの考えていたことでした。

 W氏は『映画芸術』(乙イ1の85頁)のなかで、まるでわたしがこのときのことをあとになって思い出して訴えたかのように書いていますが、そうではありません。わたしは毎日苦しくて、日記にその苦しさを吐き出していました。思い出すどころか、忘れようにも忘れられない苦しみの刻まれた日々でした。文章も不完全で恥ずかしくはあるのですが、当時の日記を証拠としてここに抜粋します。

 

「10.16  

自分の気分がおちこんでいるときに、ハルキやハヤオのひはんをきくのはくるしい。

自分の生きている支えを、思い切り否定されているようで。

でもきっと今はためされているのだと思う。

ぜったいに人前で泣かないこと。

ぜったいに人前で弱音を吐かないこと。

自分のしたいことをやれているのだから。

でも、ハヤオやハルキをひはんする人たちは、

ハヤオやハルキより人格がいいとかんじない。

Wせんせいの性格は好きな所もあるけど、やっぱり、

ずっといるとへきえきしてしまうし。

ハルキ、ハヤオを最低のラインっていうなんてひどすぎる。

批難するならもっと気をつけて

正確なことばでしたらいいのに。

本当はもっともっと怒っている。

頭がいいのはみとめるし、

もっと理性で考えなくちゃいけない

けど、傷つきすぎなのだろーか

きっとそうなんだろう。

好きでもないし、

おもしろくもないのに

迎合しすぎ。

また同じギャグかよ、とか。

じゃあお前に何がかけるんですかって

本当は私はおもっているのでは?」

 

 あるとき駅の近くの陸橋を歩いているとき、ここから飛び降りればもうW氏の授業に行かなくてすむと自分が考えていることに気づきました。帰ってから家族に落ち込んでいるのを心配され、もう大学院に行かなくてもいいんじゃないかと言われましたが、わたしはそんなわけにはいかないと答えました。しかし家族に強く促されて、10月20日わたしは知人の心理療法家である██さんにメールを送りました(甲26)。██さんにわたしの状態を告げるとすぐに精神科にいくことを勧められました。けれど、すでに周りの学生から「遅れをとっている」わたしにはやるべきことが山ほどあり、病院なんかに行っている暇はないと思って、██さんの助言を無視しました。そして状態は悪化し、10月22日、わたしははじめて聴講を休みました。

 W氏が自著の中で村上春樹やユング、河合隼雄を批判するのは勝手です。仲間内で「死ね」だの「バカ」だの考えを共有するのも——それは批評ではなくただの悪口だと思いますが——それも勝手です。でも、大学は内輪の場所ではありません。教室にはいろんな思想を持った人が座っています。誰が何を好きであろうと、何を信奉しようと、個人の自由が保障されているはずです。それは社会と同じではないでしょうか? W氏は自著の中でも同じように「死ね」だの「バカ」だのといった人格否定の言葉を用いて特定の作家や思想を罵倒しているのでしょうか? そうでないのであれば、それは教室という閉鎖的な空間で、教員と学生という上下関係によって相手が言い返してこないということに甘え、攻撃欲と支配欲を垂れ流していたということです。

 おまけに、W氏は、わたしが村上春樹、河合隼雄、ユング派を信奉していたということを分かった上で、授業に聴講にくるように言い渡し、そこにわたしがいることを知りながら、上記の発言を繰り返しています。これは本当に、早稲田大学のいうように(甲62:2018年8月8日の回答書)「批評に慣れていなかった」わたし側の受け取り方の問題なんでしょうか。2018年7月12日には早稲田大学副総長島田陽一氏(当時)は「「死ね」との表現を用いることは、それ自体が苛烈な表現ではあるものの、W教授によれば、同表現は文学的には生きのびるに値しないという含意であるとのこと」であったと説明していますが(甲8)、だったらはじめから「文学的には生きのびるのに値しない」と言えばいいだけのことです。言葉を扱う専門家である文芸批評家・W氏が、その表現の違いによる効果を分かっていなかったはずはありません。他にも選択肢があるにもかかわらず、「死ね」という表現を確信的に繰り返し選択していること自体に問題があります。その暴力性を早稲田大学は是とするのでしょうか。

『ハラスメント被害者の心理的回復』(甲63の320頁)にて指摘されているように、加害者の側には常に行動の選択肢があります。被害者は選択肢を持っておらず、加害者が常にその場の選択肢を握っているという点で行為するのだから、行為は加害する人の責任です。その人の成績を評価したり、進学について決めたりする権利は全部加害者側にある状況において、選択肢をどのように使うかということは、力を持っている方が考えなくてはならないことです。

 2018年8月8日の回答書では(甲62)、早稲田大学は「教員の表現の自由や学問の自由を侵害したり、教育研究の現場に萎縮効果を与えたりする可能性」を挙げて、「W氏の講義における批判・批評」を懲戒処分の対象とすることに対し「慎重にならざるを得ません」と述べています。しかしながら、早稲田大学は、学生の学問の自由についてはどうお考えなのでしょうか。授業中の教員の表現の自由というのは、学生の学問の自由が守られてこその自由です。そもそもわたしは創作を学びたいという根本的な研究動機すら蔑ろにされ、批評のゼミに配置されているわけで、これは学習権の侵害にあたります。なぜ学生の自由は容易に踏みにじられるにもかかわらず、教員が暴言を吐く自由は保護されるのでしょうか。

 早稲田大学はこれらの「批評的言動」はハラスメントに該当しないとしていますが、自尊心を傷つける行為であることには変わりはありません。このようにして囲い込みの過程が一段階進んでいったと考えられます。

 ちなみに、2022年4月18日、早稲田大学は「デジタル時代のマーケティング総合講座」において講義担当者が「生娘をシャブ漬け戦略」などと発言したことについて「教育機関として到底容認できるものではありません」と表明し、謝罪しました(甲64の1,2)。マーケティングにおける戦略を含意した表現であっても「生娘をシャブ漬け」という言葉を「容認できない」としたことになります。W氏の「死ね」発言は容認したのに、です。どちらも加害性の明らかな言葉、「生娘をシャブ漬け」と「死ね」の差はどこにあるのでしょう。早稲田大学の見解が2018年から変わったというのであれば、ぜひお聞かせいただきたく思います。

   *

 なぜ河合隼雄まで嘲笑の対象とされなくてはいけないのか納得のいかなかったわたしは、W氏に直接問いただそうと10月29日の休み時間、意を決してW氏の研究室へ行きました。

 ノックをして中に入り、質問したい旨を伝えるとW氏はわたしに座るよう促しました。わたしは「どうして河合隼雄がいけないんですか?」とストレートに聞きました。W氏は意外にも静かに答えました。その説明はそれまでの授業での態度とは打ってかわって丁寧でした。わたしはメモをとりました。他にもわからないことはあるか聞かれ、わたしは授業でわからなかったことをいくつか質問しました。

 このときの対応から、この人は授業中はパフォーマンス的に罵詈雑言を吐くけれど、個人的に質問をしに行けば真摯に答えてくれるのかもしれない、と思い込んでしまいました。なお、わたしが直接質問にいったこの日から、W氏が授業中に河合隼雄やユング派を執拗に攻撃することは収まっていきました。

   *

  

 早稲田大学では、わたしの被害後もハラスメント事案が相次いで発生しています。

 

 2020年1月24日 早大でアカハラ、教授2人処分 学生に「無理な課題」(甲38の1)

 2020年5月29日 早大講師、アカハラで解任 学生に「大学やめろ」(甲38の2)

 2020年7月10日 早大教授、学生に「バカ」 パワハラなどで停職6ヶ月に(甲38の3)

 2022年3月25日 早稲田大の男子学生、女子准教授と大学をアカハラ提訴「性交渉を強要された」(甲65の1)

 2022年4月29日 早稲田大学の理工学術院の名誉教授が、元秘書から強制わいせつで訴えられる(甲65の2)

 

 このように被害が相次いでいるのは、早稲田大学が場当たり的な対処しかせずに、根本的な人権意識を見つめ直すという作業を怠っているからではないでしょうか。

 W氏も早稲田大学も、授業や指導における言葉の攻撃性・危険性をいまだに認めていませんが、関係性の差異を利用した上での言葉の暴力によって、少なくない数の人が心を痛め、最悪自ら命を絶つことを強いられています。2017年には山形大学で、教員によるアカデミック・ハラスメントによって学生が自殺した事件が報じられました。

 わたしは今回耐え抜きました。だから結果オーライに思えるかもしれませんが、それはたまたまにすぎません。誰かを傷つけうるこれらの発言が本当に「表現の自由」として認められたままでいいのか、今一度考え直すべきだと思います。

 

 

 

第2 セクハラへ