※ この文章は、2022年9月に公開した、深沢レナによる「陳述書 第7」に関する解説です。

  

  

  

1 はじめに

  

以下では原告A=深沢レナさんが裁判に先立っておこなった苦情申立てに対する早稲田大学の返答(以下「調査結果報告」とする)のうち、ハラスメント防止室の対応をめぐる箇所を精読していく。というのもそこには大学が――早稲田大学のみならず、おそらくは日本の大学という組織一般が多かれ少なかれ――大学のハラスメントというものをいかに認識しているのかが、凝縮されたかたちで露呈しているように思われるからである。本稿の目的はその認識のありようを析出し、問題として提示することにある。

  

   

2 資料の位置づけと概要

   

本稿が精読していくのは2018年8月23日付で発行された、W氏のハラスメント行為「以外」の申立て内容にかんする調査結果報告(甲10号証)の「6.防止室の対応について」、および全体の総括にあたる「早稲田大学に対する提言」である(W氏のハラスメント行為自体の調査結果は同年7月12日付書面で別途報告された)。ハラスメントの発端から裁判に至るまでの経緯は本HP内「関連できごと年表」にまとめられているが、それをもとにここでは本資料の位置づけについて、本稿が最低限踏まえておくべき事項とその時系列のみ確認しておこう。

  

2016年 4月    Aさんが早稲田大学大学院文学研究科現代文芸コースに入学
(~2017年中にかけて、入学前から生じていたW氏からのセクハラが継続)
2018年 3月16日  退学手続き
       4月16日   ハラスメント防止室に電話
     4月23日  同防止室にて面談
     5月14日  当時の早稲田大学総長および文学学術院に直訴状の送付
       5月23日  総務部長、ハラスメント防止委員会委員長(当時)S教授との面談(Aさん体調不良のため家族が赴く)。
       6月14日	苦情申立書(甲3号証)の提出
       6月20日  ウェブ媒体(PRESIDENT Online)における最初の告発記事の掲載
       7月12日	W氏のハラスメント行為についての調査結果報告
       7月27日  早稲田大学HP上にてW氏の教授解任が発表
       8月23日	W氏のハラスメント行為以外の調査結果報告(本稿の検討対象)

  

この調査結果報告は大学の「リスク管理およびコンプライアンス推進統括責任者」である当時の副総長名義でAさんに送付されたもので、その名が記された添え状によれば、Aさんの苦情申立てと「調査委員会」の設置を媒介したのは「リスクおよびコンプライアンス推進に関する規則」であるという。後者は「リスク管理および」の誤記と思われるが、いずれにせよ「リスク」と「コンプライアンス」というこの二語こそ大学の根本姿勢を示すキーワードであることを予め銘記されたい。

またこの調査委員会の設置に関与したという当時の総務部法務課長の陳述書(乙ロ第14号証)によると、委員会は「複数の外部弁護士を含む者から構成」されたとはいうものの具体的な人選は「基本的に学外秘」であり、また委員の選任自体は「総括責任者」たる「総長指名の理事」によってなされているということからも、完全な第三者が大学の意向の介在しえない立場で調査をおこなったものとは考え難い。よって本稿では調査委員会を――さすがに苦情申立ての対象とその関係者からはあるていど独立しているにせよ――あくまで「大学」という組織の一部と見なしたうえで調査結果報告の文言を検討していく。

   

   

3 不安定(insecure)な被害者というリスク?

――「6‐1.2018年4月16日の電話について」

  

Aさんの苦情申立書によれば、ハラスメント防止室に面談予約の電話をした際に①Aさんが家族の同伴を希望したところ、電話対応者から「何度も抵抗された」。また、同伴してはいけない理由を尋ねてもはっきりとした返答を得られなかった。加えてその電話対応者は②Aさんや関係教員の情報を電話口で聞き出しながら、自身の名前は尋ねられても明かすことを拒否した。この二点についての調査結果報告を順に検討してみよう。

  

調査結果報告は、家族の同伴について電話対応者が「「同伴してもいい」との趣旨の即答はしなかった」ことを認めている。そのうえで「そのような質問をする場合は男性だと怖いという心配をしている人がままあることから、相談員からは、「こちらは女性2人が対応するから、1人でも大丈夫です」と回答した」という「T氏」(のちにAさんの面談を担当する相談員の一人)の主張を引く。つまり同伴の必要はないと述べたかっただけで禁止はしていないというわけだ。たしかにAさんの苦情申立書でも、なぜ家族が同伴してはいけないのかという問いに電話対応者が「いけないわけではないけれど…」と答えた旨が証言されていた(太字の強調は引用者。以下同)。同伴してはいけない「わけではない」けれど、その必要はない――しかし本来、必要性を判断するのは被害者の側ではないのか。相手が判断すべきはずの必要性を、たとえ明確な禁止はしていないにせよ執拗な印象を与えるほどには積極的に否定したのはなぜなのか。同伴してはいけない「わけではない」が少なくともそうしないほうが望ましいからではないだろうか。もちろんこれは防止室側にとって、ということである。

そもそもAさんの苦情申立書によれば、家族の同伴を希望したのは一人でキャンパスに赴きW氏と遭遇する危険を恐れたことに加え、面談員の側が二人であることも理由としてあったという。つまり面談員の性別にかかわらず、2対1の構図自体がAさんにとっては問題だったのだ。この人数比に着目して先のT氏の主張を読みなおすと、電話対応者の「こちらは女性2人が対応するから、1人でも大丈夫です」という回答は“防止室側は2人で対応させてもらう、しかしどちらも女性だから、あなたは1人でも大丈夫”という意味合いに――つまり性別の面で譲歩することで2対1の構図を受け容れさせようとするものとも解釈しうる。家族の同伴が防止室にとって“いけないわけではないが少なくともそうしないほうが望ましい”事態だったのは、一人の被害者に二人で対応するというこの暗黙の原則ゆえのことであったのかもしれない。これは決して突飛な想像ではないだろう。

ところで、調査委員会によるとこうした防止室の対応は「不適切であったとまでは言えないものの、相談者[=被害者のこと。対応する側を指す「相談員」とは別の意味である。混同を避けるため以下同様に註記する――引用者註]に対して寄り添うということができていない」。十分に、などといった程度を表す副詞の類抜きで端的に「寄り添うということができていない」にもかかわらず、そうした対応は「不適切」と見なされない。逆に言えば被害者に寄り添うことは大学のハラスメント防止室の対応が「適切」と見なされるための必要条件ではない、ということになる。それはすでに最低限の適切さをクリアしているとされる防止室が今後検討すべき「より適切な」対応のオプションでしかなく、その実現には「相談員に対する研修や心理学など専門家によるサポートが必要」とされるのだが、この文言には二つ指摘すべきポイントがある。

一つは問題が防止室自体の構造ではなく相談員個々人の技量にかかわるものと捉えられている点、もう一つは必要な専門性として第一に「心理学」が挙げられている点である。後者について急いで補足しておくと、本稿は、被害者に適切な仕方で「寄り添う」うえでの心理学的な専門知の必要性を過小評価しているわけではない。ただ、後に検討するいくつかの点からも大学(さしあたり防止室および調査委員会)が被害者の心理状態を「ケア」よりも「管理」すべきリスクの一種と捉えていることは明確であり、その徴候をここにもたしかめておきたいのだ。例えば電話対応が寄り添いに欠けると判断した理由について、調査委員会は「相談者[=被害者]が同伴を希望する背景には、大学に来ること自体が怖い、などの理由も十分考えられる」と同時に、被害者は「その被害等により精神的に不安定となり、少しでも否定的な言葉があれば、それを相談員による拒絶と受け止めることも考えうるところである」としていた。これらはいずれも一見まっとうな指摘に思われるかもしれない。だが(前者はともかく)後者にはいささか気がかりなニュアンスも付きまとう。なぜ「不安定」なのか。不安定=insecureとは安全=securityの欠如――すなわちリスクそのものであるという考え方が、ここにあらわれているのではないか。

    

このことは、電話対応者が名前を名乗らなかったという二点目の申立てにかんする調査結果報告の見解がいっそう露骨に示している。すなわち「相談員が名乗らないことで、ハラスメント被害者に不安を与える可能性は存するものの、一方で、ハラスメントの相談にはどのような人物が来るかわからない状態で、実際に、妄想的な相談や夜の12時まで相談者[=被害者]が帰らない事案も発生しており、相談員の安全のために相談段階では名前を名乗らないこととすることは、妥当な判断であると考えられる」というのだ。

大学がハラスメントの被害者をどのような存在と捉えているのかが顕著に見て取られる象徴的な一文である。まず、防止室の対応方針が仮に「ハラスメント被害者に不安を与える可能性」を含むとしても、それが「相談員の安全」を考慮した結果であれば、その妥当性は損なわれない――というのがこの主張の基本的なロジックである。このロジックを踏まえるならば、①において寄り添いを犠牲にしてまで電話対応者が家族の同伴に「抵抗」したのもまた、同様に「相談員の安全」を(この場合は相談員2:被害者1という非対称な人数比を崩さないことで)優先的に確保しようとした結果と推測できないだろうか。

念のため断っておくと、本稿は「相談員の安全」について雇用者や現場の管理責任者が考慮する必要性を否定したいわけではない。また「相談員の安全」と「ハラスメント被害者の不安」のどちらをより優先すべきかという議論にも、実のところ踏み込むつもりはない。こうした問いに拘泥することは別の、より建設的な考え方の可能性を覆い隠してしまうと思うからだ。すなわちこれら両者は決してトレードオフの関係ではなく、むしろ「ハラスメント被害者の不安」の十全な払拭こそ「相談員の安全」の最大の保障につながるという可能性である。その当否をにわかに検証する余裕はない。しかし少なくとも“被害者と相談員双方の安全は両立しえないものであって必ずどちらかを優先すべき”とする見方が、決して唯一の前提でないことは指摘できるだろう。にもかかわらず大学がそのようにしか考えられないのは、おそらく「ハラスメント被害者」という存在に対する問題含みの偏見に起因している。

上に引いた文言にある「ハラスメントの相談にはどのような人物が来るかわからない」という一節の含意をたしかめておこう。これは“相談員は予め面識のない相談者に対応する”という当たり前の事実を述べているだけにも読めるが、そうではない。この一節と、それに続く「妄想的な相談や夜の12時まで相談者が帰らない事案」への言及との間は「実際に」という語で結ばれていることから、まずこれらの「事案」は「どのような人物が来るかわからない」の実例として示されていることがわかる。そしてこの「事案」はさらに「相談員の安全」に配慮すべき根拠として扱われているわけだから、要するに「どのような人物が来るかわからない」とは単に来訪者が既知でないという文字通りの意味以上に、どのような“危険な”人物が来るかわからないという懸念――というよりも恐怖の表現にほかならない。

じじつ「妄想的な相談」なる言い回しは、防止室(あるいはここでその主張を代弁していると思しき調査委員会)がハラスメント被害の申立てに対し、相談の内容によってはまだ具体的な調査もなされていない段階からその真実性に疑義を挟んではばからないことを軽率にも告白している。また被害者が深夜まで防止室に留まろうとした原因が、初めから相談を妄想と決めつけるような防止室の態度によって喚起された「不安」にある可能性も考慮されない。被害者の行動が「相談員の安全」を脅かすものとみなされるとき、その行動は防止室の不適切な対応の結果ではなく、原因は被害者にもともと潜在する危険性(「不安定」さ)にあると考えられている。被害者と相談員に相互作用は想定されていない。だからトレードオフなのである。ちなみにこうした具体的な「事案」を例に挙げる一方、それらを防止するうえで「名前を名乗らないこと」がなぜ、どのように役立つのかは不明である。そこには何か実効的な理由があるのだろうか。強いて言えば「知らない人にはむやみに名前を教えないようにしましょう」という、ごく漠然とした危機意識の延長でなされた措置にすぎないようにも思われる。おそらく大学にとってハラスメント被害者は一般に――個々の事情にかかわらず、はじめから――自分たちの「安全」を脅かす恐怖の対象なのである。

   

    

4 ハラスメントの解決=「人間関係の調整」という前提

――「6‐2.2018年4月16日のメールについて」

  

苦情申立書によれば、Aさんは電話対応者の指示に従って同日中にメールで面談日の予約をしたが、防止室からの返信には「中退をされた場合には、申立てをお受けできない場合もあります」とあった。Aさんは「ハラスメントが原因で中退したのにそんな理屈あまりにもおかしい」と苦痛を感じ、家族にメールを転送。家族がAさんに代わってその旨について質問したが、面談時に説明するとの答えしか返ってこなかったという。

調査結果報告には、防止室からの返信のうちAさんが引いていた文言(「中退をされた場合には……」)に先立つ箇所も併せて引用されている。それによると「当防止室では継続的人間関係の維持を考慮し、ハラスメント事案の解決については人間関係の調整を旨として」いる。だから――といった接続詞は明示されいないが、おそらくそういうことだろう――「中退とされた[ママ]場合には、申立をお受けできない場合もあります」。この文面については前出のT氏が次のように補足している。すなわち「ゼミの変更などの人間関係の調整を希望する場合」は、当然「退学していると対応できない」ため「申立てに至らなかった前例があり」「そもそも受理できない可能性があるのであれば来所の前に言ってほしかったという意見があったと聞いていることから」このような記載になったという。加えて「S教授」(ハラスメント委員長)によれば、ここには「退学を思いとどまってほしいという主旨も」入っているというのだが、こちらについてはさすがの調査結果報告も「そのような配慮によるものとは到底読むことができ」ないと否定的な評価をくだしている。またT氏の主張についても「退学してしまえばゼミの変更などの対応ができないのは当然であり、あえて記載する必要がある文言であるとはいえない」とし、結果として件のメールは「退学した者からの申立ては受け付けないとの趣旨と受け取る方が自然であり、きわめて不適切」とする。

この箇所について調査結果報告の見解は(あまりに筋の通らない弁明に対しごく常識的な指摘をしているだけで特段の評価に値することは何も言っていないにせよ)決して不当ではないように見える。しかし、S教授のあからさまな詭弁についてはともかくT氏の主張に対しては、もう少し踏み込んだ検討をする余地と必要があるのではないだろうか。

たしかに「退学してしまえばゼミの変更などの対応ができないのは当然」なのだが、だとすれば「退学した者」が「ゼミの変更などの対応」を求めること自体、そもそも考えにくいのではないだろうか。T氏がいう「申立てに至らなかった前例」の実情がいまいち理解しがたいのはこの点である。その被害者は退学していたにもかかわらず「ゼミの変更などの人間関係の調整を希望」したのだろうか。防止室および調査委員会が想定するような「精神的に不安定」な被害者ならばそのような非合理も「当然」犯しうるというのだろうか……ここでT氏の主張(厳密には調査委員会によるその要約)をいま一度確認しよう。そこにいわく「苦情申立による調整内容については、退学していると対応できないものもあるため(たとえば、ゼミの変更などの人間関係の調整を希望する場合)申立てに至らなかった前例があり、その際、そもそも受理できない可能性があるのであれば来所の前に言ってほしかったという意見があったと聞いていることから、上記のメールの記載になった」(括弧内含め原文ママ)。

ここには奇妙な主語の混乱がある。括弧内の部分で人間関係の調整を「希望する」といわれているその主語は被害者本人であろう。そしてそうした対応を自ら「希望」するのは、常識的に考えれば今後も在学ないし在職予定の被害者に限られるだろう。だがこの括弧書きの部分をいったん取り去ってしまえば(一般に、括弧にはいったん取り去っても文意が崩壊しない要素が入る)この文面には被害者のいかなる主体的意志も存在しない。ここで「対応できない」という動詞の目的語は「苦情申立」の(「希望」ではなく)「調整内容」である点に注意しよう。当然「調整」の主語は防止室である。そして先のメールの文面によれば「当防止室では[…]ハラスメント事案の解決については人間関係の調整を旨として」いる。言い換えれば被害者の希望がどうあれ、防止室自身がそれを第一に重んじている。とすれば人間関係の調整を被害者本人が「希望」する「場合」もたしかにあるかもしれないが、そうでなくすでに退学した/退学を検討している被害者が正式な調査とそれに基づく加害者の処分等による「解決」を希望したにもかかわらず、「人間関係の調整」を「ハラスメント事案の解決」の「旨」とする防止室がそれ以外の解決策を考慮しなかった結果「申立てに至らなかった」といった「場合」も考えられる。ここで参照されている「前例」とは、まさにこのような事態だったのではないか。実際、T氏のいう「前例」と、括弧内にあるように被害者自身が「人間関係の調整を希望する場合」とが、同じ一つの事例を指すと考える構文上の根拠はこの文のどこにもない。括弧内の補足はおそらく「退学していると対応できない」「調整内容」を示すための一般的な例示にすぎないのであって(「希望する場合」という現在形の時制にもそのことが示されている)、T氏は“すでに退学していた被害者が人間関係の調整を希望したけれども申立てに至らなかった”前例があると明確に述べているわけではないのだ――そんな被害者はいるはずがないのだから当然である。

したがって調査結果報告において本来なされるべきは、退学者のゼミ変更は不可能などという自明の理の確認よりも「ハラスメント事案の解決」=「人間関係の調整」という防止室の前提を問い直すことだったはずだ。しかしそこでの指摘は“当然のことをあえて記載する必要がない”という表面的なものに留まり、解決方針の前提は――むしろ言うまでもないこととして――より暗黙的に温存されたままになってしまう。もっとも調査結果報告は同時に「退学した者からの申立ては受け付けないとの趣旨に受け取」られかねない文面が「きわめて不適切」とも述べているのだから、退学者からの申立ても本来受け入れられるべきという建前はあるのだろう。だが(あえて言えばこの国の難民受け入れのようなもので)門戸自体は開けておくが門前で追い払う、といったふるまいは決して珍しいものではない。本来受け付けられるべき申立てが事実上受け付けられていない実態の是正こそ調査委員会のなすべき提言ではないだろうか。このように構造自体の変革に結びつく指摘を一貫して避けている点も、調査結果報告の著しい特徴である

  

  

5 リスクとしての「誤解」への拘泥と、それが温存するもの

――「6‐3.2018年4月23日における面談について」

   

Aさんは家族同伴で面談に赴いた際、③対応にあたった相談員(事前の説明通り女性が二人で、一人は前出のT氏)から「名前は名乗れない」「録音も禁じられている」と言われ、理由を問い質したが「ハラスメント委員会は人間関係の良好な関係を維持するのが目的で守秘義務がある点などを強調するだけ」だったという。Aさんは不服に思いながらも予め用意した要約書をもとに被害内容を説明。相談員は手書きでメモを取っていたが、明らかに書き漏らしがあり「録音を取らないことの意味がますます不明」に感じた。また④防止室から渡されたリーフレットに記載のフローチャートに、ハラスメント防止委員会への申立てが「当事者本人のみ」となっている点について、これを代理人不可の意と受け取った家族が疑義を呈したが、相談者は「本学の決まりではそうなっている」としか答えなかったという。さらに⑤面談の最後になって、所定の苦情申立書に被害内容を記載し別途参考資料とともに防止室に提出するよう指示された。Aさんは「いままで一時間半にわたって自分の被害を延々を話したことの意味がまったくわからず[…]生徒の側に何度も早稲田に来させることを強いるハラスメント防止室の方針に納得がいかなかった」。

まず③で指摘された録音不可の原則について調査結果報告は、防止室側による録音は被害者の「萎縮」を懸念して禁止されているというT氏の説明については「理解できる」としつつ、今回のように被害者自身が録音を求めている場合は「その理由について丁寧に説明すべきだった」と述べている。その点で「配慮に欠ける対応であった」ことは認めているが、被害者側による録音を認めるべきとまでは述べていない。そもそも「丁寧に説明」さえすれば納得できるような正当な「理由」など本当にあるのか(この場合、被害者の萎縮が云々では理屈が通らないのだから)は不明であり、この点は委員会の追及が不十分に感じられる。ただし相談員が言及した「守秘義務」にかんして「申立て後の当事者の守秘義務について定めた規定はあるものの[…]相談段階における守秘義務を定める規定はない」と指摘し、相談段階でことさら守秘義務を持ち出すことは「第三者への相談等が禁止されるともとられかねない」としているのはひとまず妥当な懸念といえる。第三者への相談は「被害回復にとって重要」であるから必要以上に制限されることのないよう「説明の方法にも改善が必要」とする提言も、それ自体としては必ずしも問題含みなものではない。

④については、リーフレットにおける「本人」が「第三者」の対義語で「代理人弁護士の行為は本人に帰属するため、代理人による申立ては「当事者本人」による申立てとなる」ことが確認され、この点のわかりにくさについて「表記を再考し、わかりやすい記載に改めるべきである」と提言している。ここにも、にわかに反論すべき点はない。

⑤については、とりわけAさんのように事前に要約を持参している場合はその書面をもって申立てとするなど「ハラスメント被害者の負担の軽減のためにも、申立人の意向も確認したうえで、申立人が望むのであれば、相談と同時に申立てを行うことができるよう、柔軟な取り扱いがなされることが望まれる」とした。たしかにそのとおりだろう。

しかし気にかかる点がないわけではない。例えば③および④にかんして調査結果報告による是正の提案は全て「説明」や「記載」を「わかりやすい」「丁寧」なものにすべきという点に留まっている。なぜそうすべきかというと、それは「…ともとられかねない」といった言い回しにも表れているように(不当な)誤解を避けるためと考えられる。ちょうどおのれの言動を批判された政治家が“誤解を与えた”点についてのみ謝罪をし“理解を得られるよう丁寧に説明をしていく”と述べてお茶を濁す、あの見慣れた光景が思い浮かぶ……要するにここで留意すべきは、説明の「方法」の不適切さを認めることは翻って、説明される内容――この場合はハラスメント防止にかかわる制度そのものの構造――を暗黙裡に肯定・追認する効果をもつということだ。先に見たように、退学(予定)者の申立てを制限するかのような「趣旨に受け取」られかねないメールの文面を「きわめて不適切」とする一方、実態の是正については等閑視していたのもそういうことである。

もちろん少なくとも④については、現に代理人による申立てが可能だというのならば説明の改善のみで事足りるとも考えられるし、説明の改善という方向性がつねに不十分・的外れであると言うつもりはない。ただしこの提言にもかかわらず翌年度もリーフレットの文言に変更はなかったといい、実態は説明の改善すら十分になされていないようだ。ここまで見てきたように調査委員会がひたすら誤解というリスクの防止にばかり汲々とする提言を重ねることによって何を――その“やってる感”の背後で――放置し温存しているのかには注意深くあるべきだろう。

なお⑤をめぐる提言は比較的中身のあるものとも言えるが、とはいえ決して制度のラディカルな改革を志向するものではなく、現行の規則内で許容される範囲での「柔軟な」運用を示唆するに留まっている点は――「コンプライアンス推進」という枠組みの持つ顕著な限界として――ここで指摘しておきたい

     

   

6 大学の基本姿勢としての、構造的問題の等閑視

――「6‐4.申立人らとS教授及びa総務部長とのやりとりについて」

   

Aさんの苦情申立書によると、2018年5月13・14日にかけて当時の大学総長、およびAさんの所属研究科の上部組織である文学学術院の長に、Aさんの家族からハラスメントにかんする直訴がおこなわれた。しかし後者からの反応はなく、総長の代理(調査結果報告内の「a総務部長」にあたる)からのみ連絡があった。a総務部長は「あくまでハラスメント委員会に書類を提出すること」の指示と「被害の訴えはなるべくコンパクトに」「対象は絞るように」といった意見を示すに留まり、その後のメールも「形式ばかりの返事」に留まったという。

この一連のやりとりについて、調査結果報告は同年5月23日にAさんの家族と「S教授」「a部長」の三人でおこなったとされる面接の内容を中心に報告している。

調査結果報告によると、その面談においてはまず次の説明がS教授からなされた。すなわち前述の直訴は家族名義のため、いずれにせよ「本人からのハラスメント防止委員会への申立て」手続きは必要になること、その際に申立書の提出は郵送でも構わないが、最終的には被害者本人が直接に防止室を訪れて意思確認をしなければならないことの二点である(ここで文面から読み取れる以上の事実の当否に踏み込む用意はないが、Aさん側は同日の面接において申立書の郵送自体が却下されたと主張している点を言い添えておく)。これについて調査委員会は、被害者が成人であるため家族の申立てに加えて本人の意思確認が必要という説明自体は正当だが、一度すでに防止室を訪れており連絡先も把握しているはずのAさんに再度の来所を求めるのは「過度な負担を課すものであり、不適切」と評価する。これは前節の⑤にかんする評定と同趣旨のものであり、決して不当ではないが、たいして画期的とも思われない。

またS教授はこの面談で「時間がかかるため、申立対象(加害者)は絞った方がよい」という旨の助言もおこなったという。これについて調査結果報告は「申立対象が多数に上る場合は、時間がかかることは避けられないことであり、早急な解決は申立人の利益にもなる」ため、この助言は「不適切であるとは言えない」とする。しかし「ハラスメント被害者は、しばしばハラスメント被害後にその被害を軽んじられるという二次被害にもあっていることがあり、防止室での対応においては、対応者がハラスメント被害者を軽んじているという印象を与えないよう、丁寧な説明を行うべきであった」という。やはり問題は「説明」の不足にあり、被害者を軽んじているように思われたとしてもそれはあくまでも「印象」にすぎないというわけだが、前半で「しばしば[…]二次被害にもあっていることがあり」とわざわざ言い添えているのも奇妙である。そのような二次被害が他所においてあろうとなかろうと関係なく、防止室がハラスメント被害者を実際に軽んじることはもちろん、そういう印象を与えるものであってもならないことに変わりはないだろう。にもかかわらず、これではまるで被害者が他所での「二次被害」により「精神的に不安定」となった結果そうした誤解を抱きやすい状態にあると言わんばかりではないか。またそもそも「早急な解決は申立人の利益にもなる」という前提にも議論の余地はある。無駄に時間がかかるのは問題だが、早急だが表層的な解決よりは時間をかけた根本的な解決をいっそう望む被害者がいてもおかしくないだろう。そしてそれは必然的に、ただ一人の加害者のみならずその周囲の人々の対応や大学の制度そのものを問い直すことにならざるをえないはずだ。こうした可能性を考慮しないことは構造的問題の等閑視という、これまでもたびたび指摘してきた大学の基本姿勢にそのまま直結する。

ところで本人による申立ての必要性と、対象加害者の絞り込みの提案というこの二点をAさんはa総務部長の発言として記述していたが、調査結果報告によればa総務部長はそれを否定、いずれもS教授の発言であると主張し、調査委員会もそれを事実として認定している。また本稿の主旨を外れるため詳述はしないが、この調査結果報告はその他の点についても「a総務部長のみにその責任を負わせることはできない」とか、防止室の不適切な対応がなければa総務部長もより適切な対応をできたはずだといったふうに、いささか不自然なまでにa総務部長の個人的責任を低く見積もろうとしている印象を受ける。とはいえその理由についてさしたる根拠もなくむやみに詮索することは控えるべきだろうから、ここでは誰が言ったかなどこの文脈においてはそもそもあまり重要でないという点、そしていかなる理由であれこのように個人の責任の有無に拘泥する態度もまた構造的問題の等閑視の一例である点のみ、簡潔に指摘しておきたい。

    

   

7 偽りの「信頼感」と欺瞞の論理

――「早稲田大学に対する提言」

   

調査結果報告の末尾に付された、委員会から大学への「提言」は次のような文言から始まっている――「今回の調査を通じて痛感されたことは、教職員がハラスメントについての相談を受ける際、なによりもまず、真摯に話を聞いてもらえるという信頼感を、相談者[=被害者]の側に与えることが重要ということである」。そしてこれは防止室のような「特定の相談窓口だけに関わることではなく」例えばAさんがハラスメントについて相談した所属コースの教員など「教職員全員が[…]ハラスメントについての相談を受けた際にどのような態度をとるべきかについての意識をあらたにしなくてはならない」という。

妥当な見解と思われるかもしれない。ではこれを敷衍する過程で現れる次の一文についてはどうだろう――「その相談内容が結果的にはハラスメントとは呼べないようなものであったり、場合によっては、相談者[=被害者]の側に不用意な点が見られるケースがあるとしても(実際、相談窓口などにおいては、そのようなケースのほうが、数が多いという現実がたとえあるとしても)、ハラスメントに関する相談であるとの申し出を受けた時点で、まず襟を正し、相談者の言うことを虚心に聞くという真摯な態度を示すべきである」。

なぜこのような譲歩節(…としても)を入れ込む必要があったのか、にわかには理解しがたい。要するにここで調査委員会は、被害者による相談内容は大半がハラスメントと呼ぶに値しない、あるいは被害者にも落ち度があるという認識を、なんらエビデンスを提示することなく「現実」として認定しているのだ(もっとも、たとえ被害者に「不用意な点」があったとしてもそれによって加害が正当化されることはないのだから、ここでの委員会の指摘は文字通り無意味なのだが……)。ハラスメント被害者とは大学にとって恐怖の対象であるという先の指摘がここで図らずも裏付けられたわけだが、この一節が譲歩節のかたちをとって示唆しようとしているのは“いかなる内容であれ、まずは被害者の言葉を信じよ”という倫理的な格率というより、むしろ“被害者の言葉を決して信じることなく、しかしそのことを悟られぬようにせよ”という欺瞞の論理に近いように思われる。そしてそれを踏まえたとき、提言冒頭の「真摯に話を聞いてもらえるという信頼感を、相談者の側に与える」という表現もまた、いささか不気味な響きを帯びはじめるだろう。大学にとって「重要」なのは真に被害者の信頼に値する対応を取ることではなく、信頼に値すると(是非はともかく)被害者に感じさせることなのだ、と。

そうであれば「相談者[=被害者]にとっては、個人の別に関係なく、すべての教職員が強い立場を持った、組織の側の人間であり、仮にその場の雰囲気をなごませるといった意図であっても、冗談めかした発言をしたり、相談者の相談内容を一般化し、相談者の個別事情を軽視するような発言をしたりすることは、深刻なハラスメント被害を受けた相談者からすれば、組織の側の人間が問題を矮小化しようとしていると受け取られ、そのことによってさらに心に受けた傷を大きくしてしまうことになりかねない」という、一見すると被害者の実情に寄り添っているかのようなこの一文にも注意が必要である。ここではハラスメント被害者(学生であれ教職員であれ)と他の多くの教職員とのあいだに非対称な力関係のあることが客観的事実として認められているわけではない。あくまでも被害者の主観的な認識の問題に留められていることが、引用中で強調した表現からは読み取られる。それに続く「仮に相談者が落ち着いた態度で、むしろ明るい表情をしているというような場合であったとしても、それは組織側の人間の前で示す表面的なものであり、その陰に深刻な精神的ダメージが隠されているかもしれないことに思いをいたさなくてはならない」との一文もまた、被害者の精神的な機微に対する適切な配慮のようでありつつ教職員に向けた端的にリスク管理上の警告――“油断するな”――としても機能しうるものだろう。

このようにして教職員全般における「真摯な態度」の重要性を強調したのち、調査委員会は次のような原則論に言及する。すなわち「一般に相談を受けた際には、然るべき窓口に相談することを勧めることを第一とすべきであり、内部解決を優先することは避けなければならない(今回の事案では、当のハラスメント防止委員会の窓口がうまく機能しなかったということが問題であったわけであるが、同窓口対応を改善したうえで、同窓口への相談を第一とすべきである。)」と。ここで言われる「内部解決」とは平たく言えば“内々で収めるような対応”のことであり、それが望ましくないというのはたしかだろう。しかし問題は、そのような対応が避けるべきものとされる理由の説明である。

提言によれば「本来、ハラスメント防止委員会では、今回の事案にあるような指導教員の変更といった措置を含めた、人間関係の調整による解決を図ることを旨としている。内部解決で処理しようとした場合、ちょっとした連絡の行き違いなどによって相談者の信頼が少しでも損なわれるようなことがあれば、内部解決の試み自体が、ハラスメント行為を行なった教員に近い人間による組織防衛と解釈されることが避けられない」という。

二つの文がどのような論理関係で並列されているのか、いささか曖昧な記述である。まず二文めから検討していこう。相談者の信頼を損なう要因をあくまでも「行き違い」のごとき不如意のものに留めようとする姿勢の不誠実さはひとまず措くとして、注目すべきは「内部解決の試み自体が[…]と解釈されることが避けられない」との記述である。というのも問題を被害者の側の「誤解」に帰するあのもはや見慣れたレトリックによって、この文は「内部解決」というものが、それを「試み」る意図そのものにおいては必ずしも否定すべきものではないとの見解を暗黙裡に示してしまっているように思われるのだ。内部解決=組織防衛というのが被害者の「解釈」にすぎないならば、そこには真の、そして正当な意図が別にあることになる。つまり内部解決が不適当とされるのはそれが往々にして失敗するからでしかなく、その目指すところをいっそう確実に達成しうる手段をこそ、より優先すべきということになるだろう。ところですでに見たようにハラスメントについては「然るべき窓口」への相談が「第一」の選択肢であり、その対応の主旨とは何よりもまず「人間関係の調整による解決」なのだった――ということは論理上、この「人間関係の調整による解決」がとりもなおさず「内部解決」本来の目的でもある(ことが示唆されている)と考えられる。つまりここで調査委員会が言おうとしているのは「内部解決」も「窓口への相談」もその目的は共通しており、ただし後者のほうがそれをよくなしうるのだからそちらを選択しましょう、ということにほかならない

では「内部解決」と「窓口への相談」が同じ目的を共有するとして、にもかかわらず前者に傾きがちなのはなぜかというと、それは両者が同じ目的を共有しているというまさにそのことが周知されていないからだろう。より明確に言えば、窓口につなぐと「大ごと」になると思われているからそうしないで内々に収めようという発想になるわけだ。それについてこの提言は、ハラスメント防止委員会もまた「人間関係の調整による解決」を「旨としている」のだと強調することで、窓口に相談しても大ごとにはならないとわざわざ請け合っているに等しいのではないだろうか。苦労して内々に収めようとせずとも「然るべき窓口」につなぎさえすれば、むしろよりよく事を収められるのだから、と(ちなみに調査報告書は「大ごとにしたくない」というのがAさん自身の希望であったかのような認定をおこなっているが、Aさんはそれを否定しており、本稿の視点からもこの点にかんする調査委員会の認定手順には疑問が残る。その検証にここで踏み込むことは控えるが、一般論として、ハラスメントのような問題については被害者よりも加害者およびその関係者のほうがそれを「大ごとにしたくない」と考える蓋然性が高いことは常識的に考えても否定しがたいだろう)。相談内容の正当性や真実性を努めて低く評価しながら被害者の主観的な「信頼」ばかり取り繕おうとする欺瞞の姿勢がことさら重視されたのも、要はなるべく穏便に窓口へとつなぎたい、つないでしまいさえすればそれで済むのだ――ということなのかもしれない。

そもそもこの調査結果報告において「人間関係の調整」という文言は、Aさんの問い合わせに対する防止室の返信からの引用というかたちでまずは登場したのだった。そしてこうした対応には「退学していると対応できない」という問題があること、だからといって「退学した者からの申立ては受け付けない」わけではないと(少なくとも建前としては)調査委員会も承知しているらしいことを、本稿ではすでに確認した。しかしここで新たに明らかになったのは、委員会が「ハラスメント事案の解決」=「人間関係の調整」という防止室の前提を単に不問に付しているだけでなく、積極的に――いかなる引用符も抜きに、紛れもない委員会自身の見解として――採用しているということである。こうした前提が単なる現場の方針を超えた大学全体のドグマとして固定化することで、そもそも「人間関係の調整による解決」が不可能なケース(その筆頭は被害者がすでに退学している場合だろう)については救済の対象から構造的に排除されてしまうおそれはないだろうか。それとも被害者が大学を去った時点で人間関係は「調整」され問題は「解決」されたことになるとでもいうのだろうか。そして被害者が大学を去った後も、例えばメディア上での告発などを通じてそのような「解決」に抗ったときにのみ――「リスク」が「リスク」であり続けたときにのみ――別様の解決が選択肢としてようやく浮上するのだろうか。それは被害者を、あまりに大きな負担に晒す構造ではないだろうか。

    

   

8 おわりに

   

ここまで、Aさんのハラスメント被害をめぐる大学の対応を検討した調査結果報告がいかなるロジックに貫かれていたのか、それ自体としては妥当であるようにも見える文面を含めて仔細に検討することで分析してきた。最後にその結果を、冒頭でもふれた「リスク」および「コンプライアンス」というキーワードを参照しつつ簡潔にまとめなおしておこう。

本稿の分析によって得られた知見は大きく以下の三点である。

第一に、調査結果報告に通底する最も基本的な姿勢として、構造的問題の等閑視が指摘された。具体的には(1)問題を各人の技量や姿勢に帰属させたり、(2)個別的な責任の有無や軽重に拘泥したり、(3)また改善の提言を「説明」方法や、現行の規則内で許容されうる「柔軟な」運用などに限定したりすることで、制度のラディカルな変革につながる提言を一貫して回避している点に、こうした傾向が表れていることを確認した。

第二に、大学におけるハラスメント対応が「人間関係の調整による解決」を原則としていることとその問題性が指摘された。具体的な問題としては(A)退学(予定)者の申立てがこのような原則のもとでは事実上の門前払いとなりかねないこと、また(B)このような解決方針は当事者の所属組織における「内部解決の試み」と軌を一にするものであること(それゆえ加害者およびその関係者の利益に資する、あるいは少なくとも不利益を免ずる向きに自ずと流れかねないこと)が挙げられる。

第三に、調査委員会およびハラスメント防止室の現場双方における、被害者の心理状態やその相談内容の正当性・真実性に対する否定的な偏見が、調査結果報告の随所に露呈していたことも確認された。それによるとハラスメント被害者は「精神的に不安定」であり、その相談内容の大半はハラスメントとは呼べない(「妄想的な」)もので、むしろ被害者の落ち度も多分に指摘されるべき事案であるという。このような偏見からは、大学がハラスメント被害者を管理すべきリスクとしてのみ捉え(ともすれば恐怖し)、あるべきケアの必要性を否認していることが読み取られる。被害者に対する「真摯な態度」が要求されるとしても、それはリスクによりよく対処するための方便以上のものとはならない。

上のまとめを含め、本稿では全篇にわたり「リスク」という語を敢えて未定義のまま使用してきた。おそらくその曖昧さは本質的なものであり、大学が(あるいは大学に限らず)「リスク」や「リスク管理」と言うとき、その内実は捉えどころがなく漠然としている。例えばアカハラやセクハラが「リスク案件」と呼ばれる際、それは誰(何)による誰(何)にとってのリスクなのか。この問いに具体的に答えられる者はいない――強いて言えば「コンプライアンス」にとってのリスクなのだろうが、これは答えというよりいかなる具体的な答えをも回避した結果である。しばしば「法令遵守」とも訳されるコンプライアンスとは、あるべき理想を指し示すというよりも単に“あるべきでないことがない”ことの謂いにすぎず、おそらくそこで“あるべきでない”とされるもの一般に与えられた抽象的な名こそが、すなわち「リスク」にほかならないのだ。それはコンプライアンスというフラットで偏りのない地平にたまたま生じる非人称的な突起物であって、その発生を抑止、あるいは発生したものについては元どおりに地ならしすることがいわゆるリスク管理なのであろう。そこでは被害者や加害者の具体的な顔は抹消される。リスクは顔をもたないのだ。

ならばリスクをいかに「管理」し、それによってコンプライアンスをどこまで「推進」したとしても、ただ“あるべきでないこと”が消極的に除去されるだけで、より“あるべき”体制の模索とそのための抜本的変革が自ずと志向されることは考えにくい。その意味で「リスク管理およびコンプライアンス推進」という大枠のもとでなされた調査の結果報告が構造的問題を等閑視したものになることは、半ば宿命であったと言えよう。また「リスク」とは概念自体の性質からしても基本的に可能性を問題にするものであり、ゆえにその「管理」は可能性を可能性に留めること、すなわち「防止」が主眼となる。したがって“あるべきでないこと”がすでに現実となってしまった事案については、それを可能性の次元に押し戻そうとする(=なかったことにしようとする)――とまでは言わないにせよ、ひとまずリスクの無効化を最優先とする方向に傾いてもおかしくはない。それがつまり「人間関係の調整による解決」の本義なのであり、このことは防止室のメールにおける「継続的人間関係の維持を考慮し…」という文面からも推察される。また先にも示唆したとおり、コンプライアンスを前提とする限りリスクは組織の構造に予め内在するものであってはならない、あくまでも偶発的に生じる“あるべきでないこと”の可能性にすぎないのだから、当然リスクの所在は第一に、組織にとって最も外在的なファクターに帰せられることになる。そしてそれがほかならぬ被害者であることは言うまでもない。

このように、本稿が資料の精読を通じて明らかにした三つの問題点はいずれも「リスク管理およびコンプライアンス推進」という調査の大前提に予め組み込まれていたと言える。

なお早稲田大学のHP(https://www.waseda.jp/inst/harassment/counseling/desk)によれば2020年11月30日をもって同学は「ハラスメント防止室」を廃止、以後は「コンプライアンス推進室」がその任にあたっているという。