“穴”を見つけるのが得意な支配者——罪悪感を植えつけられる被害者

    

栗田 この謎の絵、今見直すとすごいね(笑)。

   

——気になってました(笑)。これなんですか?

   

by過剰姉妹 「インパクション171号」(2009年10月)より

   

栗田 これは女性が「受け入れちゃう」問題について書いたものでね。女性は抱えさせられた「自信のない穴」を、他者からの期待とかで埋めがちで、この穴をその期待される姿の代表と言っていい「ロリータ」、いわば「(若い)娘」或いは「母」という表象を「過剰姉妹」はどうするのか?という話なんです。「ロリータ」や「母」とは、「娘」みたいに可愛いかなんでも受け止める「母」を求められるとして、結局この二つの表象が何を生み出しているかって、男の安心感じゃん? そのメカニズムを撲滅したいよねという話になったんです。場合によってはスピリチュアルもそういう自信を持てない穴に入り込んでしまう。

 でも、過剰姉妹は、とりあえず吠えていこうとしたんです。でも、自信のない穴が存在していることは示したほうがいいとなった。この穴を無理やり埋めると闇雲にマジョリティな男性からの期待に応えてしまったりしかねないけど、でも穴がないふり、いわば自信があるふりをしても不安とか、満たされなさとかといった“穴”は深くなる一方だから、そこはとりあえずあらわにしようということで、あらわになってる(笑)。

   

——わかるなーこの穴。埋めちゃいがちだなー。「根本的な自信のなさ」ってやつ。

  

栗田 なんかさ、暴力をふるってくるやつはそういうところにだけ目敏いんだよね。

   

——わかるー。

   

栗田 そして囲い込んで勝手に穴を広げていくみたいなやり方…。

   

——なんなんですかね。あの「目の合っちゃう感じ」というか。  

    

栗田 「この人は気をきかせることができる」とか、そういうのが見える立ち位置こそが、権力の位置なのかな、と思う。その位置がハラスメントと深く結びつきやすい。権力って、もちろん大学の先生だったり、いろいろなグループのリーダーだったりという力でもあるけど、人間関係を上から俯瞰して見る力でもあるのかな、と。小さい頃、いじめっ子はそういうのを見る天才だと思ってた。なんでそこまで人の弱点わかる?って。

   

——北九州の連続監禁殺人事件ってご存知ですか?

   

栗田 あの衝撃的な事件ね。自分は手を下さずに、家族同士で殺し合わせたという。

   

——そうそう。わたしあの事件の本読んだとき、大学院での支配とも構図的に似てるなって感じて。たとえば、教授が授業中に他の学生に罵声を浴びせるのを黙って見続けていると、だんだん共犯的な気持ちにさせられてしまうんですよね。わたしのいたところだけでなく、他の大学院でも、教授が他の教員や学生に、ターゲットをいじったりさせるということをしてる研究室は、ハラスメントや性暴力の温床になってる。加害者って、人を分断させるのがうまいんだと思う。人間を序列化して、さらに下のものをいじめさせて、被害者がイノセントでなくなっていくことで罪悪感を生ませていく、それでその支配の場から逃げられなくなっていく、という構造があるんですよね。

    

【北九州・連続監禁殺人事件】
2002年3月に発覚した監禁・連続殺人事件。主犯の被告男性の“内縁の妻”として共犯に問われていた被告女性の弁護人は、被告女性も被告男性からの暴力・虐待の被害者としての面を有すること、被告男性によるDVやマインドコントロールによって“道具”となり殺害を実行したことを主張。被告女性は控訴審で死刑から無期懲役へと減刑された。なお、張江泰之『人殺しの息子と呼ばれて』(KADOKAWA、2018)では、被告らの息子へのインタビューを通じて、支配の渦中の様子だけでなく、加害者である両親への思い、犯罪者の子供たちがこの国で生きていくことの難しさも語られている。
 

   

栗田 イノセントではいさせられなくなるのは、すごいわかる。そういう能力をいい方向に使えばいいのにと思うけどさ、でもそういう力って悪い方向にしかならないんだろうね。善良さというのは、ある意味では「見えなさ」でもあるのかもね。

    

——客観的な立場からみると、「どうしてそんな異常なことが起こり得るの?」って不思議になるんですけど、でも、あの、渦中にいる時にその場の異常さがわからなくなる感じというのは、ブラック企業に近い気がする。

   

栗田 やっぱり権力の使われ方は、職場や社会運動、あるいは大学で、多少違いがあるとしても、根が同じなんだと思う。他の世界を見えなくさせちゃうとか、「この人の言うことを聞かないとダメなんじゃないか」という風に持っていかされることが本当に多い。それが全然特別なことではなく、当たり前のようにあるものとして捉えないと、と思うんだ。それが宗教ならばカルトと呼ばれたりするけれど、日本社会はむしろそれが初期設定なのではと思うくらい。そうとしか思えないくらいのハラスメントの多さだよ。

  

     

被害者への“制度的裏切り”——よきことをなす人たちによる加害行為

    

栗田 大学でもどこもかしこもハラスメントが起きているし。上智大学所属だったアート関連の教授も話題になったよね? 

   

——はい、林氏ですね。

     

【上智大学のハラスメント問題】
上智大学の教授で美術評論家連盟の会長も務める美術評論家の林道郎氏から、教え子の女性が10年以上にわたってセクハラ・アカハラを受けたとされる事件。段階的に性的な関係を求められるようになったこの事件の手口は「フット・イン・ザ・ドア・テクニック」と呼ばれるもので、「グルーミング(手なづけ)」と合わせてハラスメントに多く見られる手口。
   
*参考 
美術手帖「美術評論家連盟会長で上智大教授の林道郎、元教え子の女性がセクハラで提訴。10年にわたり関係」(2021/9/20)

   

栗田 わたし上智大学でバイトをしてたことあるんだけど、その人のことは知らなかった。上智大学ってカトリックだけど、カトリックは、もう教会組織として性暴力や性虐待が酷すぎるから。

   

——映画にもなっていましたよね。

   

栗田 カトリック教会は、例えばカナダではレジデンススクール(寄宿学校)での性的なものを含んだ虐待や虐殺が起きてました。先住民の子どもたちを無理やり家から離したのみならず、その寄宿学校に詰め込んで、性虐待を含む虐待や虐殺を続けていた。他の国でもカトリック教会のある国すべてといってもいいくらい、聖職者によるハラスメントと性暴力の問題が勃発してるだけではなく、それを組織的に隠蔽してきたことがさらに問題となり、今ヨーロッパでは大幅にカトリック信徒数が下がっていると言われてます。

   

【カトリック教会の性暴力】
カナダのレジデンススクールの事件はこちらの記事などを参照のこと。
*東京新聞「カナダ、先住民同化政策の闇…寄宿学校跡地で大量の子どもの遺骨」(2021/7/8)

 カトリック教会における、神父による性的虐待と組織ぐるみでの隠蔽は、2002年にアメリカの「ボストン・グローブ」誌が報道したことを発端に、被害者の告発が世界中に波及。映画『スポットライト 世紀のスクープ』では、最初の報道の様子を知ることができる。
 宗教者からの性暴力が被害者にトラウマを引き起こしやすい特質としては、
・周囲から被害を「ありえない」などと否認されやすいこと
・被害を口にすることは神への冒涜などと捉える被害者自らのプレッシャー
・加害者個人だけではなく、宗教的共同体や、場合によっては神からも裏切られたように感じて回復に時間がかかる
などが挙げられる。
    
*参考
現代ビジネス「50年間続いてきたカトリック教会「性的児童虐待」の深い闇」(2018/9/27)
HUFFPOST「『誰かに話せば、地獄に』被害者が訴える、聖職者からの性暴力」(2020/8/2)

   

――今、わたしは二次被害について調べているんですけど、英語だと制度・組織が被害者を裏切る「制度的裏切り」(Institutional Betrayal)っていう言葉があって。

   

栗田 あるんや! もうそんなんばっかりだよね。

   

——特にセクハラや性暴力だとその「制度的裏切り」が生じることが多いんですよ。

    

【組織的裏切り/制度的裏切り Institutional Betrayal】 
米国の心理学者ジェニファー・フレイドによって提唱された概念。その組織を頼りにしている個人に対して、組織が行う不正行為のこと。組織内で生じた不正行為を防止したり、対応しないことを含む。 大学などの機関が、レイプ、性的暴行などの違法行為を隠蔽すると、この「組織的裏切り」がサバイバーの回復を阻む。ガスライティングの組織版。

※ ガスライティング Gaslighting 
心理的虐待の一種。被害者に些細な嫌がらせを行ったり、わざと誤った情報を提示し、被害者が自分の記憶、知覚、正気、もしくは自身の認識を疑うように仕向ける手法。舞台劇『ガス燈』にちなむ。

*参考 
Kathy Ahern “Institutional Betrayal and Gaslighting -Why Whistle-Blowers Are So Traumatized"(Wolters Kluwer Health, Inc. 2018)

    

栗田 信田さよ子さんの記事(晶文社SCRAP BOOK「よきことをなす人たちのセクハラ 第6回」)で取り上げられた東京シューレの話なども思い出す。実は、わたしは東京シューレのことについていわゆる他人事にはできない経緯がある。1966年に学校基本調査で「学校嫌い」の統計が開始されて2016年が50周年だった。その歴史を振り返るために「不登校50年証言プロジェクト」という企画が立ち上がり、不登校の当事者や研究者、家族や居場所の運営者といった様々な人にインタビューした。その企画に東京シューレや不登校新聞社が中心となっていて、わたしもその企画に関西在住中に関わったんだよね。その時にはでも、東京シューレのスタッフが性虐待を起こし、それを東京シューレが隠蔽していたということを全く知らなかったんです。知っていたら、もっとわたしも違う対応ができたと思って、忸怩たる思いです。女性の労働運動、貧困問題等の活動をしていると、当然いろいろな団体と関わる。だからこそ社会運動団体というか、今の言葉で言うソーシャルグッド界隈が人権侵害や、セクシュアルハラスメント、性暴力や、性虐待を行うことに無関心かつ無感覚でいてはいけないと痛感した。

 改めて説明すると東京シューレというフリースクールがあって、そこが1998年から2000年くらいにかけて、ログハウスを長野に建てて男性のスタッフと子供たちの何人かが共同生活してたの。そこで性虐待を受けた被害者が訴えた。だけど東京シューレ自身が何も動こうとしなかった。何故そのようなことが起きたのかという説明責任を果たしていない。そこで被害者の人がネットやブログを使って告発せざるを得なくなって、わたしもそれで初めて知って…。

   

【東京シューレの性暴力事件】
 フリースクールの草分けとして知られる「東京シューレ」にて、スタッフの男性から長期間にわたって日常的に性的被害を受けていたことがきっかけとなり、PTSDを発症したとして、被害女性が当時の男性スタッフと東京シューレに対し、2016年に損害賠償請求を起こした件。訴訟は和解となったものの、裁判の経緯や和解内容については口外禁止となっており、東京シューレは外部からの説明要求や取材などを拒絶していた。そんな中、東京シューレは2019年にHPにて、人権侵害についてのスタッフ研修などに取り組んでいるとの声明を発表したが、提訴された当該事件については一切触れず。何事もなかったかのように、イベントを主宰し、子どもの権利や人権を大事にする理念を掲げ続けた。
 2020年、朝日新聞が被害者女性への取材記事にて、東京シューレの名前を明記したのち、ようやく東京シューレは「東京シューレにおける性被害について、及び、子ども等の人権、安心・安全を守るための取り組み」を公表。同年秋に検証委員会設置となったものの、委員に任命された人物の性差別的なツイートが問題となった他、シューレ側は被害者女性から要望をスルー、被害者女性への聞き取りもしないまま、ネット上で「検証の最終報告」が発表されるなど、問題だらけだった。
 しかしながらその後も、東京シューレはメディアや書籍で持ち上げられ続けている。その度に被害者や支援者が声を上げ、出版差し止め、イベント中止などになっているにもかかわらず、2023年には文部科学省がシューレを事務局としたイベントを企画。これにも抗議が相次ぎ、中止となったものの、その理由を「筋違いなクレーム」のせいと表現するなど、現在進行形で二次加害が継続している。
   
*参考
Twitterアカウント「原告@東京シューレOG 避難垢」@Zg2a4qB6NPnbG2e
朝日新聞デジタル「フリースクールでの性被害、和解『居場所の安全守って』」(2019/7/6) 
朝日新聞記事フリースクールの子、性暴力から守れ 10代でスタッフによる被害 今も苦しむ30代女性」(2020/2/3)
なんかなんか通信「『女子校のプールの水になりたい』弁護士に性暴力被害者が伝えたいこと」(2021/6/12)

      

——そういう組織内の人はお役所仕事的に、あまり深く考えずに対応しているのかもしれないですけど、でも「小さな無責任」の積み重なりを引き受けてるのって全部被害者だから。

    

栗田 二次加害の怖さは、一次加害をした組織が説明責任を果たしてなくて、その暴力が隠蔽されている中で、その一次加害をした組織と活動をしていけば、一次加害をした組織の方を信頼して、確実に二次加害につながるという怖さでもあると思う。

    

——多分、加担していることに自覚もなく、どんどん広がってっちゃいますよね。

    

栗田 二次加害のことを調べると、責任を取るべき人や組織が責任を取らないところから発生すると思った。そして周りも「責任を取れ」と言わない。その団体が称賛浴びる前に、周囲が「責任を果たせ」って言わなきゃいけないんだよね。でも隠蔽されていると何が起きたかわからないから、「いいことをしている」ことに注目がどんどん集まって、暴力をふるわれた方はどんどん疲弊していく仕組みというか、構造がある。これはやっぱり大元の一次加害者にずっと「責任を取れ」と言ってないといけないんだということがわかった。

    

——うんうん。

    

栗田 結局、優先順位が変なことになってしまっている。

   

   

「今がよけりゃいい」の連続でこうなっちゃった日本——運動に居座り続けないように

   

——わたしがHPにあげた「陳述書」の第5で、周囲の教員たちによる二次加害を詳細に書いたんですけど、わたしが指導教員(W)からセクハラにあったあと、当時の主任(M)に相談したら、「君には隙がある」ということを言われたりして、まあ一応指導教員変更とはなったんですけど、それからも主任からずっとメールで「あんまり広まらないように」とか「どこまで話しましたか?」とか注意されつづけて。

     

栗田 !!!!! その人、まったくわかってないんだね。

   

——メールで全部残ってますからね。

    

栗田 逆に、今後はハラスメントは巧妙になるかもしれない。けれど、日本の場合、アニマルウェルフェアのこともそうだけど、次元が酷すぎる(苦笑)。

    

——そう、次元が違う(呆)。

     

栗田 とにかく言葉が通じない。そりゃアジアの他国の方が経済的にも文化的にも成長して日本を追い越すとか言われても驚かない。

   

——そういう事件が起こって、それをちゃんと解決しないのって、長期的に見れば組織にとっても何のメリットもないはずなのに、なんでやらないんだろう?

    

栗田 それもね、最近わかったの。目が近視のわたくしがいうのもナニですが、近視的にしかものを見てないんだと思う。政治もそうだけど、本当にその時のことしか見てない。10年後とか20年後とか全然考えてないんだと思う。これじゃ衰退するよね? 少子化対策と言っても保育所を対応できるようつくるとか、保育士やそのほかケアワーカーの賃金をあげるとか、教育費を安くするとか対策はあっただろうに。少子化はバブルの最中の90年代にすでにわかっていたけれど手を打たなかった。つまり当時も20年後、30年後を見てなかったわけだよね。それが今も続いていると思う。結局女性たちの声を、男性たちが何故聞かなかったかと言えば、「今がよけりゃいい」の連続だったからなのだろう、と思う。

   

——あー、今持ってるものが失われるのが怖いのかなぁ。

    

栗田 基本このままでいいと思ってるんだよね。問題は刻々と変わってるのに、そんなことにはもう目を向けない。問題を解決したわけじゃなくて、自分たちの場所さえあればいいんだな、と。でもそういう活動家は多くて、ああはなりたくない、と思う。

   

——怖い話が、そのわたしの相談した主任(M)というのはフェミニストで。

  

栗田 怖い怖い、でも全然驚けない!

  

——しかも、M氏はこの事件の重要人物なのに、裁判にも一度も参加せず、わたしや証人の主張も聞かないまま、全部大学任せにして逃げてる。地味にめっちゃ悪質(怒)。あと、このM氏は、某男性フェミニストのライターの“恩師”なんですけど、彼らはわたしの事件後も変わらず一緒に自主ゼミを運営していたみたいで。

   

栗田 ライターの方は知らないの?

   

——いや、知ってます。わたしとも直接の知り合いだし、告発するときに共通の知人がそのライターに全部話して。

   

栗田 知ってて一緒に運営してるの? 

  

——うん。今はもうどうかわからないけど。その弟子のライターに直接の恨みはないですが、「いやしくもフェミニズムを語るのなら、まずは身近な人間の二次加害を止めてください」と言いたい。

 あと他のフェミニストの女性からも、わたしの味方だといわれたうえで、「告発して傷つくのは被害者だけじゃないんだよ」とかお説教されたり…。なんか、そういう不信がいくつも積み重なっていって、フェミがますます信用できなくなっていきました。

    

栗田 界隈の闇を全部ぶちまけたくなる時はあるよね。わたし自身がミイラ取りがミイラになりたくないと祈りたくなる気持ちでもある。

  

——これはわたしの友人の言葉ですけど、「フェミニストと名乗ることが隠れ蓑になっている」と。

   

栗田 逆にね。

   

——しかも男性でフェミニストというと重宝されちゃうから。

    

栗田 そうね。重宝される時代にもなったからね。あと警戒しているのは、ジェンダーの問題がコミュニケーションスキルとして個人の能力に還元されちゃうのが嫌だな、と。要するに世間渡りのうまさとなるだけで、社会構造を変えることに繋がらなかったら嫌だな、と。

    

——ハラスメントの運動をやってても、そっちの方向に回収されちゃう怖さがあります。

   

栗田 わかる。「そういうことしないために、こういう言葉使いにしましょう」とかさ。

    

——確かに言葉づかいも大事ではあるが、それだけじゃないんだよな…。もっと根本的な、他者へのまなざしというか…。

    

栗田 本当に・・・支配欲がないと教授になれないような制度をまずどうにかしてくれ(笑)。

 

↑高橋りりす『サバイバー・フェミニズム』(インパクト出版会、2001年)では、アメリカの大学院でセクハラを受けた被害者が、学内の窓口に訴えても却下されただけでなく、訴訟を起こさなかったことで、その後参加したフェミニズム団体内でフェミニストたちからも数々の暴言を受けた体験などが綴られている。

    

     

女性の“不真面目”な運動歴史——言葉だけじゃ通じない

   

——わたし今まで、女性の“不真面目”な運動をあんまり見てこなかったので、あんまり変なやつ知らなかったんですけど、他に何かありますか?

   

栗田 あるあるあるある。大丈夫、みんなやってる。“変な運動”を男子の占有物にしちゃいけません。

『グリーナムの女たち』という本がおすすめです。この本の表紙だけ見ると真面目な感じだけど、この人たちかなり面白いことをやってきてる。イギリスで核ミサイルを止めようと「10年に及ぶ女性たちの非暴力直接行動」というのをやっていた。この運動によって核ミサイル100機がすべてなくなったというすごい運動だけど、変な踊りとかね、変な格好をしながら直接行動をしたりとか。

  

↑アリス・クック+グウィン・カーク 近藤和子訳『グリーナムの女たち 核のない世界をめざして』(八月書館、1984年)では、サイロの上で輪になって踊ったり、男支配の場である裁判で詩を歌い、花を飾ったりなど、核ミサイル反対のために女性たちが行ってきた「非暴力直接行動」の方法や、非暴力の意義が語られている。

  

栗田 女の人の運動でおもしろいのはやっぱりあって、今だったら手芸グループ山姥さんたちとかね。“変な”って言ったら語弊があるかもしれませんが。

  

——あ、堅田香織里さんの本の表紙になってるやつですね。

    

栗田 そうです。手芸グループなんですど、メッセージがいいんですよ。

 
↑堅田香緒里『生きるためのフェミニズム パンとバラと反資本主義』(タバブックス、2021年)。セーファースペースや、ジェントリフィケーション、路上のホモソーシャル空間などについても詳しい一冊。表紙作品はフェミニスト手芸グループ山姥、かんな・マルリナ。

    

栗田 あの人たちは、真面目なんだけど、表現の書いている文字とかが面白い。バッジとかで「家父長制破壊者」とか書いてある(笑)。

   

    

栗田 大阪の人たちで沖縄の辺野古の基地反対の運動やってて、おりおり辺野古にも行っている人とかは、横断幕をつくったりしてるんだよね。おもしろいかどうかはともかく、替え歌とか、全編ほのぼのさがある。年齢層高いから、替え歌もオリジナルの歌が古くて若い人にはわからない感じもいい。

 女の人の運動もあるんだけど女性の面白い運動をなかなかメディアが取り上げなくて、それでますます少ないことにされちゃうんだよね。

    

——そういう不真面目な運動のバリエーションを増やしていきたいですねー。

   

栗田 アーティストのいちむらみさこさん(過剰姉妹にもよく似た人が登場)も参加していた五輪に反対するグループの「反五輪の会」でも、すごくいろいろな“不真面目”なアクションをしていました。

  

↑反五輪の会『OLYMPICS KILL THE POOR オリンピック・パラリンピックはどこにもいらない』(インパクト出版会、2021)には抱腹絶倒な運動スキルが満載。不真面目ながらも、「より速く、より高く、より強く」とする五輪精神が、結果を出すためには人の尊厳や人権を顧みないという暴力へといかに結びつきやすいかを指摘し、実際にスポーツ界で起こっているハラスメントの数々の事実をあぶり出している。

     

栗田 最近、いちむらさんと一緒に十年ぶりくらいにトークをやったときに、そのときわたしはリクルートスーツを着てトークしたんですよ。何故かというと、派遣労働する際の顔合わせ(実は事前に面接するのは派遣法では違法なのでグレーの行為)で、もう50も近いというのにリクルートスーツ着ていくし、スーツはリクルートスーツしか持っていない。「いつまでリクルートスーツ着なきゃいけないのか」という話を冒頭でしたかったがためにそのスーツを着て行ったら、結構ウケました(笑)。 

    

——栗田さん、楽しそうですね(笑)。 

    

栗田 言葉だけじゃ通じないみたいなという事態に対する必然性というのもあったな。だって話しても聞いてくれないし、言葉が通じないんだもん、っていう。

   

——通じない連中相手にしながらも、そこで豊かなシスターフッドがうまれてるのがいいな。

    

栗田 出会って別れを繰り返してたから、切ない部分もあるけど、その時にその人たちがいてくれたのはありがたかったよね。

    

——そうですね。そのときそのときの人たちと。

      

栗田 今は会えないとはいえ、それはすごいありがたかったと思う。向こうはどう思ってるかわからないから、これはあくまでもわたしの方向だけだけど。

      

     

     

    

      

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* 栗田隆子さん新著『呻きから始まる——祈りと行動に関する24の手紙』(新教出版社、2022年)発売中

    

      

    

“何かを書くということはわたしにとって憧れというより、「自分の身に起きたこと」を伝える行為であり、それ以上のものではありませんでした。今も基本的には、わたしにとって書くことはこの身に起きたことを語る「証言」、あるいはこの世界が強い者だけが生き延びる世界でなくあってほしいという「祈り」です。それは同時に、自分が「強い」立場に立った時にどうふるまったらよいか知ることを求める「祈り」にもなるのですが、「証言」と「祈り」はわたしが言葉を発する動機やエネルギーであり、「証言」と「祈り」に足をつけている限り、安心感を持つことができています。”

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

* 大学のハラスメントを看過しない会は、寄付を原資として運営し、記事は全文を無料公開しています。ご支援、よろしくお願いいたします。 

 
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