これは、2024年8月に深沢が体験した出来事の記録です。この記事の趣旨は、社会正義運動内におけるヴィーガンへの偏見や無理解の根深さを周知させ、その課題を乗り越えることにあり、個人攻撃が目的ではありません。A氏・B氏の発言内容については若干言葉のニュアンスが異なる部分もあるかと思いますが、この出来事の数時間後に深沢が知人に送ったメールを参照しながら、できるだけそのやりとりを詳しく残しました。なお、解説にはヴィーガンであり翻訳家の井上太一さんの文章を掲載しています。
あるフェミニズムのイベントにいったヴィーガンの記録
深沢レナ
先日、あるフェミニズムのイベントに行ってきました。
わたしがこのイベントの存在を知ったのは、昨年からフェミニストたちのメーリングリストに参加しており、このイベントの宣伝が繰り返し送られてきたからです。今回のイベントのテーマは、日本のフェミニズムの広まらなさや分断をテーマに扱ったもので、インターセクショナリティ(交差性)についても触れられる予定でした。
わたし自身、セクハラ被害者であり、ヴィーガンであり、障害がある立場であり、動物の運動と性暴力やハラスメントの運動を同時に実践していく上で難しさも感じており、何かヒントが得られないかと思い、このイベントをはじめて受講することにしました。受講料は2000円と安くはありませんでしたが、社会運動についてのこういった講座はなかなかないので期待していました。
当日は、オンラインに加えて、会場での参加も可能で懇親会もあるということだったので、メールを送り、「講座、会場参加希望です。また、懇親会もできたらいきたいのですが、ヴィーガン対応可でしょうか?」とお聞きしました。スタッフの方からの返事は丁寧だったのですが、やや引っかかる内容でした。
というのも、「このイベントでは懇親会を社会運動の一環として位置づけ、個人営業の飲食店からテイクアウトする方針を採用しています。当日はインド料理店を利用する予定ですが、ヴィーガン対応が難しい場合があるため、ヴィーガン食を希望される人は、自身で食べられるものがあるかを確認し、ない場合はご持参ください。なお、ご自身でお食事をご持参いただく場合でも、別途の2,000円はお食事代ではなく懇親会の参加費として頂戴しております」とのことだったからです。
以前、わたしの会で「ヴィーガン・ベジタリアンの人権」というテーマの座談会を組みましたが、日本では多くのヴィーガン・ベジタリアンの人が、外食の際に困難を感じたり、日常的に嫌がらせを受けています。
*記事参照:https://note.com/dontoverlook_ha/n/n1d6a0df14258
最近はプラントベースの選択肢のあるお店も若干増えてはきましたが、いまだに日本のほとんどのお店はヴィーガン・ベジタリアン対応していません。そのため、外出時に食べられるものが見つからないことは頻繁にありますし、ヴィーガンの選択肢のない店を選ばれてしまって、おつまみしか食べるものがないのに他の人と同額徴収される、ということも日常的に起きています。また、何がヴィーガンなのかわからないので自分で問い合わせて欲しい、ということでしたら仕方ないかもしれませんが、これが他のマイノリティ属性だったら参加者に自分で調べさせるということはしないのではないでしょうか。
参加者に調べさせてしまっている時点でインクルーシブな対応ではないのではないか、食事がなくても同額徴収するというのはヴィーガンに対するペナルティではないか・・・と感じましたが、経験上、インド料理屋はわりと融通がきくのは知っていたので、わたしは店に電話して問い合わせました。お店の方はヴィーガンという言葉は知らなかったけれど、どのメニューが乳製品・卵フリーか丁寧に教えてくださり(ベジタブルカレー、豆カレー、ライス、野菜ビリヤニ、パラクなどは、ヴィーガン対応可能)、その旨をスタッフの方にメールで伝えました。
***
当日、会場に着くと、満席のようでした。一番前の席しか空いておらず、わたしは登壇者(ここではAさん・Bさん・Cさんとします)の目の前の席に案内されました。部屋をぐるりと見回すと、参加者に知っている顔はおらず、ひとまずほっとしました(いまだにどのイベントにいくときも、大学院の関係者がいないかを確認してしまいます)。
わたしのあとも続々と参加者が到着する中、講座がはじまりました。ゼミの内容についてはここでは詳しくは触れませんが、勉強になることもあった一方、聞きながら違和感が募ってもいきました。理由はいくつかあるのですが、一つには、アカデミアの内輪ネタや悪口がかなりの割合を占めていたからです。フェミニズムの分断がテーマにもなっていたので、ある程度問題を指摘するのはわかるのですが、常任の教員や他のフェミニストからこんなことを言われた、あんなことを言われた、という話が多く、具体的な相手を思い浮かべて服装を揶揄していた際には「それはただの悪口なのでは・・・」と聞き苦しく感じる瞬間もありました。登壇者たちもいわゆる高学歴で、批判対象であるアカデミアの人たちと登壇者3名の違いがよくわからなかったですし、「4大卒はエリートなんだ、特権なんだ」とほとんど叱責するように語る一方で、実際にそこで話されている内容は、ごくごく一部のアカデミアの人たちやそれに詳しい人たちにしか通じないようなものになっていて、「これはいったい誰のための運動なんだろう?」と首を傾げてしまいました。
参加者の話もあとで聞くということで、わたしもそれを期待していたのですが、結局、登壇者の話が予定より30分ほど延びてしまい、参加者みなさんの話を聞くことはできませんでした。
***
そういう感じだったので、懇親会もどうしようかな・・・という気持ちになっていたのですが、もうすでに食事も頼んでしまっていましたし、他の参加者のみなさんの話も聞きたかったので、わたしは2000円を支払い、席につきました。隣に座ったのは、事前にやり取りをしたスタッフの方で、講座やイベントについていろいろと教えていただきました。今年後半にはアンケートの実施方法やフィールドワークのやり方を学ぶ講座も予定されていると聞き、それには純粋に興味を持ちました。
食事も配布され、無事わたしが頼んだヴィーガン対応のカレーも渡されましたが、同時に、お肉料理やチーズ、ハムも配られました。想定していたことではありましたが、やはり違和感を覚えました。というのも、部屋の本棚には、わたしたちと一緒に座談会をやっている活動家の生田武志さんらの『10代に届けたい“5つの授業”』が目立つところに飾られていたからです。
この本では、社会運動においてすら見過ごされがちな動物たちの問題もとりあげ、たとえば畜産動物に対してできることとして、「動物福祉に配慮した畜産物を買う」「畜産物の消費を少し減らしてみる」といった具体的な行動が推奨されています。わたしが今回インド料理店に問い合わせたところヴィーガンメニューも十分あるとのことでしたし(そもそもインドではベジタリアンの食事がポピュラーです)、そのことをスタッフの方にも伝えたので、特にお肉料理に頼る必要はなかったはずですが、動物問題を扱った本を部屋に飾りながら、動物のことを考えずにみんなで食事をするということには、矛盾を感じざるを得ませんでした。
昨年からわたしたちの会でやっている「動物から考える社会運動(動物問題連続座談会)」の活動を見たり読んだりしてくださっている方であれば、現在の日本の畜産物にどういった問題があるかをすでにご存知だと思うのですが、改めて簡単に説明すると、世界では20世紀後半から「伝統畜産」から「工場畜産」に移行し、畜産物をなるべく安く・早く生産するために、大量の動物を最小限のコストで飼育する形になっていったため、数多くの倫理的問題を抱えています。
たとえば、鶏は本来、年間に約15個程度しか卵を産まない生き物ですが、工場畜産では年間約300個も産むように改良されています。また、日本では約98%の鶏がバタリーケージという狭い檻の中で、ほとんど身動きが取れない状態で飼育されており、国際的な動物福祉(アニマルウェルフェア)の水準から見ても、非常に遅れた状況にあります。
狭いスペースに閉じ込められ、砂浴びもできず、羽が擦り切れる採卵鶏たち(写真:アニマルライツセンター)
肉用鶏も、本来10年の寿命のある生き物が数ヶ月しか自活できない体に“品種改良”されており、体は大きくても心臓は小さいままであるため、生後7日目から心臓疾患に苦しんだり、腹水にもなりやすく、重すぎる体のために歩行障害にも陥りやすくなるという問題を孕んでいます。
Figure 1. Age-related changes in size (mixed-sex bodyweight and front view photos) of University of Alberta Meat Control strains unselected since 1957 and 1978, and Ross 308 broilers (2005). Within each strain, images are of the same bird at 0, 28 and 56 days of age.
足をハの字に広げたまま起き上がれなくなった鶏(写真:アニマルライツセンター)
また、チーズのもととなる牛乳を生み出すのは乳牛ですが、本来1年間で1,000リットル程度しか出さない牛が9,000〜12,000リットル出すように“品種改良”されており、異常な乳の量のせいで乳房炎などの病気にかかりやすくなっています。わたしたちは牛乳というと、牧場でのびのびと草をはんで生きているような牛の姿を思い浮かべがちですが、現実には放牧飼育の牛乳を置いているスーパーは日本では約9%に過ぎず、多くは繋ぎ飼いをされています。
首を固定されているため左右向後の身動きができず、糞尿まみれの床からも離れられない乳牛たち(写真:アニマルライツセンター)
家畜たちが抱えるこのような問題は、多くの消費者に知られていないのが現状ですが、社会正義を実践する上では、こうした「見えない存在」とされる動物たちにも配慮し、できる範囲で最善の選択をすることも、最近では特に珍しいことではありません。特に、家畜たちの生殖能力を徹底的に管理し、母から子を奪うことで成り立っている畜産に対する批判は、リプロダクティブ・ヘルス/ライツを問うフェミニズムとの親和性が高く、交差的に議論されることも多々ありますし、フェミニズムのフォーラムなどで動物性の料理が提供されることについてヴィーガン・フェミニストの間では問題視されることもあるといいます。
*記事参照:https://note.com/dontoverlook_ha/n/n10c2b8cad2e0
さらに、人間の都合で動物が“品種改良”されることだったり、病気・障害のある個体は「廃棄物」として処分されてしまうという点は、人間における健常者中心主義・障害者差別ともつながってくる問題です。ヴィーガンであり障害者であるスナウラ・テイラーは『荷を引く獣たち』の中でそういった問題について丁寧に論じていますが、この他にも動物問題は人権問題と密接に関わりがあります。
*こういった交差性については過去の記事でも解説しています。https://note.com/dontoverlook_ha/n/n5b96914d0b47
わたしも今後ここでフィールドワークの講座を受けるとすれば、懇親会で動物性の食べ物が提供されつづけてしまうと継続が難しいと思ったので、来場者が話す時間になったらそれを伝えようと思っていました。しかし、結局、懇親会では登壇者とその周囲の数人だけが話していて、来場者の自己紹介の時間は設けられないままお開きとなってしまいました。
動物の問題をスルーしていることへの違和感は、近くに座っていたスタッフさんや来場者の方々には軽く伝えたのですが、やはり運営者の方に直接言った方が良いように思われました。そこでわたしはAさんのところへいって、「問題提起させていただきたいのですが、ここで出されてるお肉や乳製品は、動物の生殖を管理されてつくられてるものです。それはフェミニズムの議論とも繋がるはずなので、今後、そういった視点もいれていただきたいです」ということを直接伝えました。
ところが、わたしの言葉はAさんを逆上させてしまったようで、「うちではそういう問題はやらない」「合わないなら来なくていい」といきなり拒絶されました。呆然としながらも、「それはおかしくないですか」と話を続けると、以下のような議論が展開されました。言われたのは、
・「部落差別のことは考えているのか? 日本では肉を食べるということがずっと差別されてきた。肉を食べない、ということは、部落の人たちを差別することそのものだ」
・「部落や屠殺業の人にとっては“わたしはヴィーガンです”ということ自体が暴力」
・「ヴィーガンは特権」
・「芝浦と場にいったことあるのか? まずは芝浦と場を見に行って」
・(部落差別の問題を考えることはもちろん大切だと思います。でも、動物の扱いを考えることと部落差別の問題を考えることは対立しない。たとえばここで出されているハムについてですが、お母さん豚は一生体の向きをかえることができない狭い檻に入れられています。それは女性への暴力やリプロの問題とつながっているはずです、というわたしの反論に対して)
「ここではそういうふうに考えない。合わないなら来なくていい。」
・(屠畜の仕方も日本は規制がちゃんとしてなくて問題です。また、今は部落の人だけでなく外国人労働者も多く関わっています、ということを伝えても)
「今でも部落の人たちが働いています」
「彼らは誇りを持って仕事をしている」
「芝浦と場ではいかに仕事をちゃんとやってるか、それはそのくらいきっちりやらなければ差別されるからだ」
・「うちの実家(Bさん)は放牧をずっとやってきた。動物を飼育するのはほんとうに大変。豚や鶏を飼ったことあるの?」
(わたし自身はありませんが、わたしの所属している団体では豚も鷄も世話してます、といったところ)
「わたしたちに言わないで、日本ハムとか大きいところにいいなよ」
(もちろんそういう運動もやってます、と反論したものの、わたしの反論には特に返答なし)
・(Bさんのような放牧の農家は全体からみればほんの数%。日本のアニマルウェルフェア:動物の福祉のレベルはすごく低い、という話をわたしがしたところ)
「アニマルウェルフェアがひどい、といって責められるのは生産者で、またそれで差別されているんだよ?」
・「わたしは肉を食べたいから食べる」
「肉を食べるのは文化だ」
(でもそれをいったら、家父長制も文化ですよね、といったら)
「良い文化と悪い文化というのがある」
・「わたしたちは肉を食べることで差別されている人たちを支えているんだ」
・「動物は感謝して食べればいい。動物は人間に食べられるために改良されてつくりかえられてきたんだ」
・「わたし動物嫌いだもん」
といったものでした。
Bさんは在日3世とのことだったので、ご自身のルーツの文化を否定されたように思われたのかもしれません(実際そのような発言もされていたように記憶しています)。ですが、韓国でももちろんヴィーガニズムの運動はありますし、在日外国人・マイノリティの中にもヴィーガンはいるので、「ヴィーガンは在日差別だ」という主張は極論ですし、さらなるマイノリティの姿を見えなくしてしまう恐れがあるように思います。
そもそも、わたしは「肉を一切食べるな」と言ったわけでも「なんで肉を食べるんだ」と糾弾したわけでもなく、「今後動物の問題も考えていってほしい」と提案しただけなのに、ここまで逆上されるというのは過剰反応のように感じます。現在、動物の身にどれほど理不尽なことが起こっているか具体例を挙げるために、オスのひよこが生まれてすぐに殺処分される問題を話した際には、Bさんは「だって資本主義ってそういうものでしょ」と言い、わたしの服か持ち物を批判しようとしたのか、「それをいったら・・・」とこちらに向かってきて、これには恐怖すら覚えました。
わたしはこのイベントに参加するのがはじめてです。知っている人も1人もいません。また、わたしはあまり頭の回転がはやい方ではなく、声も小さく、会話もゆっくりしています。そういうなかで、大学教員という社会的地位を持ち、この場でも講師であるAさん・Bさんの2人から、立て板に水のごとくわたし一人が反論されている状況は周りからみても心配だったようで、他の参加者の方が一人、「少なくとも声のトーンを合わせましょうよ」と間に入ってくれました。
しかし、Aさんは「(イベントの受講前の)事前のやり取りでもいろいろあったのよ」と、まるでわたしがクレームを言ったかのように説明したので、止めてくれた方も「それは知らなかった」と引き下がってしまいました(実際にはわたしは食事がヴィーガン対応可かどうかを聞いただけです)。時間も遅くなり、一人、また一人と帰っていくなかで、Aさんはわたしには辛辣に対応する一方、帰っていく人たちには「ごめんね」といって申し訳なさそうな顔をしていて、わたしがいるせいでみなさんが話す時間がなくなってしまったかような印象もつくられていたと思います。
もしかしたらさっさと帰ればよかったのかもしれません。でもわたしも割と頑固なので、しどろもどろになりながらも、なんとかアニマルウェルフェアの必要性を訴え続けました(フェミニズムとの関連から説得しようともしたのですが、この点については、わたしの説明が下手すぎてうまく伝えられなかったように思います)。
最終的には、横でやり取りを見ていたCさんが、「わたしたちはヴィーガンを拒んでいるわけではない」「アニマルウェルフェアについては考えてみてもいいかもしれない」と意見を述べましたが、Bさんは最後まで「ヴィーガンは頭でっかち。わたしは食べたいものを食べる。そんな頭でっかちで食べるものを選んでいて、ヴィーガンって大丈夫なの?」と、ヴィーガンの生き方を否定するような発言をしていて、この状況で「ヴィーガンを拒んではいない」というのはかなり無理があるように思いました。
このイベントのサイトには、常にインターセクショナリティ(差別の交差性;複数の差別の重なりや交わりを見ること)の視点を大事にしている、ということが謳われており、ジェンダーだけでなく、人種、民族、国籍、階級、障害、性的指向、性自認などについて、歴史的、社会的に作られた様々な差別は、バラバラに存在するのではなく、互いに交差しあい、結びついている、と説明されています。しかし、残念ながら、この中にヴィーガンは含まれていないのではないかと思わざるを得ません。だったらはじめから「ヴィーガンはお断り」と書いてくれたほうがまだマシだと思います。
今の社会では、動物性食品を摂取する消費者の多くが、アニマルウェルフェアに関心を持たないため、ヴィーガンの人たちがウェルフェアの運動も担っている状況です。ヴィーガンの中でもウェルフェアに携わる人たちは、動物の扱いの改善を求めながらも動物利用を否定はしない立場であるため、廃絶主義のヴィーガンから時に批判されながらも活動を続けています。動物性食品を食べ続けるのなら、「わたしたちは動物問題はやらない」と突っぱねるのではなく、せめてアニマルウェルフェアについては自分たちで取り組んでほしいと思い、わたしはなるべくノン・ヴィーガンの方にも動物問題をアウトリーチするようにしているのですが、関心を持ってもらうのがなかなか難しいと感じていたところ、今回のできごとはその困難を一層強く痛感させられるものでした。
とはいえ、わたし自身も部落差別の歴史については勉強不足であることは確かですし、それはそれとして学ぶ必要性は感じており、この論点に関してはまた追って座談会メンバーとも共に振り返る機会を設けたいと思っています。
ヴィーガンの中には、動物のことを第一に思うあまり、自分たちがノン・ヴィーガンから攻撃を受けても、「動物たちはもっと苦しんでいるのだから」と我慢してしまう人がたくさんいます。それゆえヴィーガンへの加害行為の事実は表に出ることが少なく、無理解や偏見もなかなか改善していきません。まずは「このような出来事があった」という記録を残すために、この記事を公開することにしました。
社会正義組織のビーガン排除に抗議する
井上太一
ビーガンは抑圧される動物たちの解放を求める者であり、みずからの解放を求める者ではない。しかし、動物搾取があらゆる生活場面に組み込まれ、搾取産物の消費が人間の正当な権利と認められているこの社会では、ビーガンたち自身が「承認されざる存在」として――生活上の不便や困難を強いられるだけでなく――しばしば大衆の敵と目され、差別や排除の標的となる。法人メディアにおいてもソーシャルメディアにおいても、それどころか面を合わせる生身の人間関係においても、ビーガンは得てして肉食者の罪悪感に起因するネガティブな偏見や憎悪を向けられる。あいにくそれは社会正義に理解のない人々だけの話ではなく、社会正義の支持者を自負する人々にもみられる傾向である。ビーガニズムは人々に知られだして間もない正義であるため、他の社会正義を標榜する人々ですら、その主張だけは露骨に無視・軽視・否定してよいものと思い込んでいることがある。
ビーガンと他の正義論者(あるいはそれらしき人々)の大きな軋轢はこれまでにもいくつかみられた。2018年には「反差別」集団CRACとその取り巻きが、発言に含まれる動物蔑視をビーガンに批判されたところ、報復として罵詈雑言と肉画像をビーガンに送りつけるといったハラスメントを行なった。左派出版社の影書房は取り巻きによる便乗発言をリツイートするなどして、このビーガンバッシングに加勢した。以後、ビーガンに肉画像を送りつける手法はアンチビーガンの手口として定着する。2019年には「やや日刊カルト新聞」創刊者の藤倉善郎ならびに同紙主筆の左派ジャーナリスト・鈴木エイトが、動物消費に異を唱えるアニマルライツセンター主催のデモ「動物はごはんじゃないデモ行進」を嘲笑する意図から、「カウンター」として「動物はおかずだデモ行進」なる妨害を行なった。2023年には再びCRACが動物蔑視の発言をビーガンに批判されたが、あいにく代表者・野間易通やその取り巻きの反応は2018年と全く変わらず、神学研究者の上原潔などがその加勢に回る始末だった。
不特定多数が見ている環境でさえ、左派やリベラルの態度はこの有様なので、もちろん非公式・非公開の場でビーガンが社会正義コミュニティから除け者にされるといった事態は容易に起こりうる。このたび深沢さんが被った排除はまさにその一例だった。しかも今度は俗悪な左派男性コミュニティではなく、ウェブサイトで「インターセクショナリティの視点」を大事にすると言い、「私たちの活動そのものも……排除の実践となっていないかどうか問い直さなければなりません」とさえ宣言しているリベラルなフェミニスト組織での出来事だったというのであるから、まことにもって遺憾なことと言わざるを得ない。
「食のバリアフリー」という概念が徐々に広まりつつある現在にあって、参加者の中に動物性食品を食べない人がいるかもしれないという前提すらなく、当たり前のように不平等な対応をする時点で、既に排除は生じている。しかしそれだけであれば、悪意のない差別として問題提起し、今後の改善に期待することもできたかもしれない。より深刻なのは、アカデミシャンでもあるA氏・B氏が、深沢さんの問題提起に対し強弁とガスライティングで応じたあげく、ビーガンというアイデンティティそのものの否定にまでおよんだことである。
動物の死体や分泌物を食べないことは屠殺業者や食肉業者への差別である、という議論は、肉食擁護者によって切り札のように持ち出されるが、一体なぜビーガンは誰でも思いつくその程度の問題すら考えていない者とみなされるのか。同じことを何度も説明する気はないので、過去の文章から引用すると、「これは事実誤認も甚だしい。日本で実際に屠殺業者を差別してきたのは畜産物の消費者である。殺生戒を奉じていた仏教徒も含め、動物利用の産物を積極的に消費してきた人々こそが、自分の責任を棚に上げ、動物殺しに直接携わる人々をいわばスケープゴートとして貶めてきたというのが歴史の現実である」(『肉食の終わり』「訳者あとがき」p.246)。ところが職業差別を正当化できなくなった動物殺しの依頼人たちは、今日に至って矛先を変え、感謝して動物搾取の産物をいただく自分たちではなく、搾取産物の消費を拒むビーガンこそが業者を差別していると主張し始めた。マジョリティを倫理的ポジションに位置づけるため、ビーガンは差別者に仕立て上げられたのである。アイデンティティそのものが差別的であるという言明は、つまるところビーガンの存在否定にほかならない。
ビーガンは特権者だという主張も、ビーガンはうんざりするほど聞かされている。なるほどビーガン食品やビーガン料理は総じて高価格のものが多いため、相応の特権がなければビーガンとして暮らすことは困難に思えるかもしれない。しかしそれは現実の一端しか見ていない。私からみれば、安価な選択肢がいくらでも存在する非ビーガンのほうが明らかに特権者である。頻繁に外食チェーン店を利用し、ワンコインで食事を済ませる、などという特権はビーガンにはない。スーパーに並ぶ無数の安い菓子や惣菜や加工品を消費する、などという特権もない。ビーガン対応を銘打たない外食店は通常、ビーガンからみれば「排除レストラン」でしかない。スーパーの加工品コーナーはビーガンからみれば不毛の大地に等しい。ビーガン対応の外食や加工品は高くつくため、多くのビーガンは外食や加工品の購入を控えることで出費を抑えようとする。ビーガンの特権を示すとされる「高いビーガン料理店」は、利用するとしても、大切な友人に会う時のような貴重な機会に訪れるにすぎない。ビーガンの中には低賃金労働に就く人々、複数の障害を抱える人々、多くの機会を奪われてきたサバイバーの人々、他の被差別属性を持つ人々などがいくらでもいる。そうした現実を知らない非ビーガンの人々が「ビーガン生活を実践できる特権」などを語るのは横暴ですらある。マジョリティの差別者はこの不平等社会で自身がいかに多くの特権を独占しているかの自覚もなく、絶えずマイノリティを特権者に仕立て上げてきた。
「わたし動物きらいだもん」という言葉に至っては、怒りに駆られて咄嗟に口を突いた一言だったとしても、言った本人の致命的な差別認識の浅はかさを露呈している。動物の代わりにどんなマイノリティ集団を当てはめてみてもよい。個人的な好悪で道徳的な配慮や包摂の範囲を区切ってよいとでもいうのだろうか。こともあろうにそのような論理をフェミニストが、それも人にものを教える立場の研究者が用いたという事実に愕然とする。差別意識――この場合は種差別(speciesism)のそれ――は人の思考をここまで劣化させる、ということを示す新たな一例に数えられよう。
その他、指摘したい点は多数あるが(とりわけ労働者の自発性に関する無垢な想定や資本主義への無批判な態度など、リベラル・フェミニズム特有の問題点については言い尽くせそうにないが)、論点を増やすことは本稿の目的に照らして適切でない可能性もあるため、各論的批判はひとまずここまでとする。前述したように、こうした問題が交差的な活動方針を公言する組織内で起こったことは驚くべき不名誉というほかない。A氏・B氏が行なったことはビーガンに対する明確な排除であり、その発言はビーガンへの憎悪と種差別に満ち満ちていた。名は伏せてあるが、加害に関与した人物もその関係者も、この文章を読めば自分たちのことを言われていると分かるはずである。深沢さんの意向を超えることかもしれないが、私は加害者が全ての発言を撤回し、自身らの振る舞いについて深沢さんに謝罪し、そのうえで、この組織をビーガンが安心して参加できる包摂的な場所とする旨を宣言してほしいと願う。が、「肉食者の脆弱性(carnist fragility)」とでもいうべきものをいやというほど見てきた者としては、むしろその人々が自分の差別意識を認められず、このうえさらに自己正当化を図ること、あるいはただ黙殺することを予想すべきなのかもしれない。事実、これまでにみてきた非ビーガンの正義論者は全てそうだった。差別問題と闘う人々はしばしば「寝ている子を起こす」必要性などを力説するが、その実、自分もまた「寝ている子」なのだと認めることは絶対にできないのである。差別や特権に向き合うことの難しさはその人々が証明している。このたび深沢さんが書かれたほどの加害を平気で行なった人物らがその例外である、と期待するのはとてつもなく難しい。