2023年4月6日 

@司法記者クラブ

    

■登壇者

    

深沢レナ(原告・詩人)、山本裕夫代理人弁護士、川口晴美(詩人・支援者)

   


   

判決についての山本弁護士からの報告   

   

■判決の結論

  

 原告在学時

(1)渡部氏のハラスメントの責任と早稲田大学のその使用者責任について、被告渡部氏と被告早稲田大学は連帯して50万円と弁護士費用5万円の合計55万円を支払え。

(2)原告が被害救済の申立をした際の教員の対応に関する早稲田大学の使用者責任について、5万円と弁護士費用5000円の合計5万5000円を支払え。

 原告退学後の被告早稲田大学の対応の責任について認めない

    というものだった。

     

■判決の意義と特徴

    

 ハラスメントによる人権侵害の事実を埋もれさせず公にし、その大学の責任を問うことができた。深沢さんは「黙っていることで次の被害を生む」ことがないようにと願って裁判を起こしたわけだが、その役割は何とか果たすことができた。

  但し、以下の点で問題を孕んでいる。

① 個々のハラスメント行為をバラバラに評価し、渡部氏のハラスメントの構造的な問題(エントラップメント)について踏み込んでいない。とくに、その始まりである入試の問題、中でも渡部氏の「不良枠」に見られる異常な入試の実情を明らかにし、早稲田の大学院入試は、試験の成績よりも、受験者の希望よりも、教員の甚だ恣意的な選択で受験者の合否が決まっていく実態があったと追及したが、この点について触れもしていない。

 教員と学生・院生の非対称性について理解していない。うわべで教員に従わざるを得ないのに、それを根拠にハラスメントを否定している。

 渡部氏が講義で村上春樹氏やその信奉者を罵倒したことに対して、表現の自由や学問の自由を理由にハラスメント性を否定した大学の結論を追認した。

    

 深沢さんのハラスメント行為についての人権救済を要求に対し、原告に「セクハラとはもっとすごいやつだ」と被害が軽微であるとし、さらに原因が原告にもある旨の発言をし、もって適切な措置を講じなかったとする点について、大学の使用者責任を認めた。

  しかし、その一方で、主任による事態の収拾、隠蔽までは認めなかった。

    

 これらの行為による損害について、被告側は自分の意思で退学したという無責任な主張をしていたが、判決は、ハラスメント行為により多大な精神的苦痛を受けたとしつつ、ハラスメント行為と退学の原因について相当因果関係があるとまではいえないとした。そして、精神的苦痛の損害額が50万円にとどまったことは、深沢さんが大学での研究の道を奪われ、詩人としての創作の場と時間を奪われた実情に照らすと、不十分というほかない。

     

4 退学後に深沢さんがハラスメント防止室に救済を求めた後の大学の対応の責任について、在学契約に基づく責任は否定する一方、一定の範囲で信義則上の義務を認めたが、結論としては、ハラスメント防止室や調査委員会の具体的な対応については責任を認めなかった。

        


     

深沢レナ(原告)による意見と感想

 

■もともとの問題意識

    

わたしが2018年に最初に声をあげたとき、この事件の解決がこれほどまでに長引くとはまったく想像もしていませんでした。

というのも、わたしの場合は、加害者自身が報道でセクハラの事実をある程度認めていましたし、二次加害についても、証拠のメールや、その場にいた第3者の証言も揃っていました。これだけ証拠がそろっていれば、結論は明らかだと思っていました。

しかし、早稲田大学での調査は、自分たちの責任を最小限にしたいのか、大学にとって不利になる証拠の存在はあからさまに無視したり、理不尽な解釈を加えることで、わたしの主張を退け続けました。

送られてきた調査結果は、はじめから結論ありきで、そのために使える証拠を切りはりしてつくられているかのような、ちぐはぐな印象を受けました。

そもそも調査委員会自体がブラックボックスで、構成員も明らかにされませんでした。

わたしの人生に関わることを誰が調査し、誰が決定しているのか、まったくわかりませんでした。

それでこの裁判をすることを決意したのですが、やりたくてはじめたわけではありません。

はじめから大学が十分な調査をしてくれていれば、まったく必要のないものでした。

当事者になるまで、裁判というものは「公平中立」なものと思っていましたが、実際にやってみると、まったく違うのだという経験をすることになりました。

個人が教員、ましてや大学という組織と戦うとなると、その情報量や経済力に圧倒的な差が生まれます。関係者のヒアリング内容、入試の合格決定のプロセス、個人情報・・・大学はあらゆる情報を保持している一方で、1個人にすぎない被害者は、大学に対抗するべく、それらの情報を必死にかき集めなくてはなりません。

自分で一人一人に頭を下げて周り、文献を調べ、専門家に意見書を依頼し、弁護士費用も個人で負担することになります。書類作成をすることもありますが、もちろん無給です。

そんな不均衡な関係性が前提となっているうえに、大学が事実を追求するのではなく、結論ありきの姿勢を貫くのであれば、被害者が頑張ってどれだけ証拠を固めたとしても、その結果は大学の解釈次第になってしまいます。それは恐ろしいことではないでしょうか。

わたしのように証拠や証人が揃っている事案でも、被害から6年ほども、ここまで苦労するのであれば、加害者側が全面的にハラスメントの事実を否定し、証拠もなかった場合、被害者は立証することが不可能になってしまいます。

そもそも、その立証責任が被害者側にすべて負わされている現状の制度も問題です。

あったことをなかったことにさせないようにするには、人権を踏みにじられ、傷を負った被害者自身が矢面に立ち、心ない言葉を投げつけらながらも、あらゆる負担を背負わされてしまう。

この構造のあり方自体についても、みなさんに見直していただきたいと思っています。

   

■損害について

    

大学は、わたしの被害をわかりやすい話にしたいのか、わたしが中退した事実にばかり目を向けて、わたしはハラスメントによって中退したのではなく、成績不良のために中退したのだという主張をすることにこだわっていますが、ハラスメントによって奪われるのは、修士号のように目に見える形のものだけではありません。

自分が人生をかけて望んでいた場所で、かつて尊敬していた人たちによって、ハラスメント行為やその容認、二次加害が行われれば、その人は自分の価値観や人生観を、決定的に損なわれることになります。それは生きる支え自体を奪われるようなものです。

わたしにとってはそれは文学でした。わたしは創作者になりたいという夢を追い、大学院を受験しましたが、自分の希望等はまったく正反対の教員に一方的に引き取られ、人格否定や執拗な罵倒をうけた挙句、セクハラ行為に及ばれることとなりました。助けてくれると思っていた教員たちからは、煙たがれ、わたしの声に真摯に耳を傾けてもらえることもなく、勝手に解決済みとされてしまいました。

セクハラについて、メディアで声を上げたことで、仕事の人脈も含め、たくさんの人間関係を失いました。いっときは本を読むことも、創作をすることもできない時期が続きました。幸い、支援者の方にめぐまれ、励ましてもらい、今ではなんとか創作にも少しずつ復帰することができていますが、裁判の負担は大きく、生活にも困難をきたしています。

ハラスメントの被害は、長期にわたって被害者個人の生活を破壊していきます。

被害を立証することの難しさは、先に述べた通りですが、特にセクハラは二次加害がひどく、自分が好きで被害にあったわけでもないのに、様々な人から心ない言葉をかけ続けられます。

裁判においても、被告弁護士からは「あなたが派手な格好をしていたからではないの?」といったような質問が平然と行われます。

毎回届く書面には、こちらの落ち度を指摘することばかり言葉が連ねられていて、朝、郵便受けを開けることさえ恐怖に思えてきます。

どこにでかけにいくにしても、加害者や関係者に出会すのではないかという恐怖が付き纏います。

加害者は、この事件を、「たった一度の過ち、冗談をいっただけ」と説明していますが、いまだにハラスメント被害について何も理解していないと言わざるを得ません。

そして、大学の調査で明らかにされなかったことを明らかにしてもらいたいと思ってはじめたこの裁判においても、残念ながら、不透明な部分に十分に光が当てられることはありませんでした。

繰り返しになりますが、セクハラはたった一度の過ちなどではありません。

被害者のその後の人生を決定的にかえてしまいます。

ハラスメントは自然災害でも事故でもない。人の起こすことなのだから、ちゃんと対策をすれば防ぐことができるはずです。

もしハラスメントが生じてしまったとしても、周囲が被害者に寄り添い、その声が尊重され、適切なサポートが受けられれば、傷も最小限ですむはずです。

いまは、被害者が声をあげたとしても、被害者非難や、傍観者達の無関心によって、孤立し、心をすり減らされていきます。

過去の過ちを繰り返さないよう、大学にも、関係者にも、傍観者の方々にも、どうかこの件から何か学んでほしいと思います。

    


  

川口晴美(支援者)による意見と感想

     

深沢さんが早稲田の大学院に入学する以前、社会人向けの詩の講座に通い始められたときから、講師として深沢さんの詩を読んできました。その頃の深沢さんは、文学というものの可能性を信じ、向上心をもって熱心に詩を書き、読みながら、詩人として着実に力をつけていっていました。その深沢さんが、もっと深く学びたいという希望を抱いて進んだ大学院で、文学に対する信頼も、詩作への意欲も、へし折られるような目にあったのは本当に酷いことだと考えています。

大学に行けなくなって中退したことはもちろん、あれほど熱意を持って創作活動をしていた深沢さんが、一時期、書くことはもちろん日本語の文章を読むことさえできなくなったのは、裁判での言葉を使わせてもらうなら「大きな損害」だと思います。

この裁判では、深沢さんの被害の回復とともに、裁判を通して、大学という場が、誰もが安心して学べる場所に、自分の可能性を狭められたり勝手に決めつけられたりすることのない、学ぼうとする自分の居場所がそこにあると感じられるような、そういう場になってほしい、そう願っていました。

また、大学だけでなく、文学というジャンルそのものが、誰もが脅かされることなく活動することのできる場になってほしい、という願いも抱いています。

このたびの判決は、よかったところもありますが、深沢さんが話されたように、充分に光が当てられていないところもあったと思います。ですが、それも含めて、深沢さんがこのように闘っていることは、世の中に対して意義があると思っています。

  

   

   

(※ この後、質疑応答となりましたが、その内容は省略します)