東京大学にて長年教鞭をとられてきた米文学者・翻訳家の柴田元幸さんに、学生のこと・大学のこと・文学のこと・運動のことなど、幅広くお話を伺いました。

柴田元幸さんプロフィール

翻訳家。米文学者。文芸誌『MONKEY』編集長。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、トマス・ピンチョン、エドワード・ゴーリー、スチュアート・ダイベック、チャールズ・ブコウスキーなど多くの現代アメリカ作家を翻訳。『生半可な學者』『柴田元幸ベスト・エッセイ』などの単著のほか、「村上柴田翻訳堂」といった村上春樹と二人で組んだ仕事も多い。
 

おおざっぱな年表
 
1954年 東京都大田区生まれ
1973年 東京大学教養学部に入学
1974年 東大の駒場寮に半年近く住む
1975年 文学部英文科に進学
1979年 英文科卒業
1984年 博士課程単位取得満期退学
1985年 イェール大学院に一年間留学
1988年 駒場の教養学科の教員になる
1991年 駒場寮の廃寮が進められる
1992年 教育改革の一環として〈英語Ⅰ〉の教材作り
1999年 本郷の英文科に移る
2007年 沼野充義さんと現代文芸論研究室へ異動
2009年 文学部の副研究科長になってしまう
2014年 東京大学を退任し名誉教授に

 

柴田さんの学生時代に見えていたもの

 

——わたし(A)は早稲田の大学院修士1年のときに、ある教員にいじめられて「もうやだ」と泣きべそをかいてて(笑)、それで柴田先生に直接お願いして東大の授業に参加させてもらうことになりまして。

  

柴田 だいたいいじめられた子は僕のところ来るんだよ(笑)。

  

——そのときの柴田先生の授業の雰囲気が風通しよくて、わたしには新鮮でした。学校によって学風というものはあるだろうし、個々の教員によっても雰囲気は変わると思いますが、ここでは大学の授業のあり方、学生と教員との関係などを考える一つの参考例として、柴田先生の学生時代のことから、ご自身が教員になってからのことなどいろいろお聞きできればと思います。

  

柴田 はい。

  

——先生は博士課程まで進まれたんですよね。当時ハラスメントはありました?

  

柴田 いや、ハラスメントという言葉さえなかったからね。僕はとにかく男の側だから、まあ男でももちろんパワハラとかアカハラとかはありうるわけだけど、僕自身はまったく感じなかったですね。でも、そういう文脈で考えて今思い出してみると、たとえば、東大の英文科の博士課程に入れば、当時はだいたい2、3年待っていればどっかの大学で教職に就けるような「就職のつく課程」としてわりと恵まれてたのだけども、概して女性の方が不利だった。だから男性で、非常勤じゃなくて常勤職につけない人というのはほとんどいなかった。いるとしたらその人が何か問題抱えているとかね。だけど女性だとそこそこきちんとやっているのに、なかなか職がないなぁ、そのうちいなくなったりしたなぁ、というケースもあった。そういうことを教授の一人と話しているときに、当時は70年代末で学生運動の頃からまだ10年くらいしか経ってないからその記憶が結構リアルなんですよね。それで、「団交とか学生との交渉をする際に女性だと泊まり込みができないから困るんですよね」みたいなことをポロっと言って、まあ要するにそういうところで人を採用するとき男女の差が出るんだということを教授はたぶん言おうとしてたんですね。

 もちろん僕は男性だからそういうことの被害には全然合わなかったし、同期や先輩後輩の女子学生から不満を直接きいたことはなかったですけど、でも、ちゃんと真面目に考えれば公平ではないということはもう見えてましたね。

  

——いまだと告発されてそう?

  

柴田 どうかなぁ。それはハラスメントとはちょっと違うからね。それをなんというかわからないけれども。今は同じ英文科でも、学生は教師を通して職が降ってくるのを待つという文脈では全然なくて、オンラインでどこの大学でも公募していて、それを見つけるためのサイトがあって、学生が自分でマメに見つけて、自分で応募して、自分で捕まえるという文脈なので、その空気も全然違うんですね。

  

——博士課程にいるときの切迫感みたいなものも先生の頃と今の学生とは全然違うんですかね。

  

柴田 違いますね。でも僕が博士課程にいた頃も、男性ならまず間違いなく職があるとはいえ、まだ実績だってほとんどないわけで、職が本当にあるのかというのは結構不安ではあった。なんかこのへん(胃のあたり)がずーっと重たい気がしたな〜(笑)っていう記憶はあるんだけど、いったん職を得ちゃうとその実感は申し訳ないけどもうなくなっちゃうね。

  

——先生自身がハラスメントみたいなものを受けたことは?

  

柴田  まったくないですね。

  

——不愉快な思いは?

  

柴田 不愉快な思いもないなぁ……。あ、強いて言えば、博士課程だった頃、就職待ち学生の院生が僕を含めて3人いて、1人は駒場にいて既にいろんな先生との交流もあったから駒場の助手に早々職が決まり、あと2人、つまり僕ともう1人が残っていたわけ。そこで横浜のある大学のポジションができて、それでわれわれの指導教官は、僕ではなくもう1人の方にその職を振った。まあ、「なんでですか?」とはきかなかったけど、なんとなくその話をしているときに、「彼のほうが横浜に住んでて近いから」って言われて、そういうところで決まるのかよ! って(笑)。でも別に僕は自分の方が実力が上だとも全然思わなかったし、まあ何かで決めるしかないんだろうなぁ、それはそれでしょうがないかなぁって思いましたね。

 

 

大学教育の新旧

 

——ご自身の学生時代と比べて、柴田先生が教員として学生を持たれた時に、その学生たちの就職への苦悩みたいなものもご覧になられてますよね。

  

柴田 そうですね。僕らの頃よりもずっと厳しい。でもその反面、教師が院生に就職の世話をするというコンテクストではなくなってる面もある。まず、だいたい学生が東大の英文で勉強しているだけではダメで、やっぱり留学経験が必要で、願わくばアメリカで博士号までとってきて、帰国してからあるいはアメリカにいる最中に職を探す、という形になってきている。だからさっき言ったような、横浜にひとつポジションがあって、どっちの学生を振るかみたいな、それこそ人の運命を左右するような状況にはあまりならずには済んでる。

  

編集部 構造的にもある意味ではひらけているということですよね。とはいえ……

  

——自己責任ってことでもありますよね。

  

柴田 そうですね。

  

——ちょっと話変わるんですけど、先生は卒論がヴォネガットだったんですよね?

  

柴田 はいはい。

  

——それに対して大橋健三郎先生が困ったような反応されてたって『coyote No.26』で書かれてましたけど(笑)

  

柴田 「ヴォネガットか、こ」で止まった(笑)。でも困ったといっても、だからダメだということでは全然なくて、本当に何を書いてもよかった。国文科ではどこの大学でもよく「まだ生きてるような作家は評価が定まってないからダメだ」とか言われてたみたいだし、今でも言うと思いますけど、僕がいたところではそういうのはまったくなかった。

  

——わりと自由というか放任だったんですか?

  

柴田 そうですね。少なくとも卒論までは。今は卒論指導とか結構大変です。学生と教師がわりと連絡取り合って、どこまで進んだかとか、中間発表会やったりとか、草稿を送らせてそれに赤入れて返してみたいなやりとりはやりますけれど、当時はまったくやらないね。

  

——放置?

  

柴田 まったく放置。今でも放置のところはあるんだろうけれどね。でも英文科だととにかく英語で論文書くじゃないですか。やっぱり学部生はみんな英語書けないからそのケアをしなくちゃいけないというのは前よりあるのかな。でも逆に、テクノロジーが発達してそういう指導がしやすくなったからしている、というところもあります。僕が学部生の卒論を見始めたのって1990年ぐらいからですけど、その頃は学生が郵便で送ってきて、僕がそれを読んで、休み中だったら学生に近所の喫茶店まできてもらって、そこで話して、みたいなのが普通でしたね。それがだんだん、メールで送ってきたのを赤入れてスキャンして返す、みたいになる。そうするとそっちの方が効率はいいからどんどんやっちゃいますよね。

 

 

添削と厳しさ

 

——わたしが受けていた柴田先生の〈アメリカ文学入門〉の授業は、結構こまめに添削されてましたよね。毎週レポートを提出して、それに先生が赤入れて、面白かったレポートを翌週印刷して全員に配布する。30〜40人分を毎回チェックされててすごい労力だなと思ってたんですけど。

  

柴田 いや、最後の方はもう体力もたないから、院生をTA(ティーチング・アシスタント)に起用して、彼らにも見てもらってた。それでも、やっぱり院生が学部生に攻撃的なことを言ったら困るので、院生のそのコメントは全部僕が目を通してから学生に戻してる。だから必ず消しゴムで消える赤ペンで書いてもらいます(笑)。

↑ 柴田さんによる添削。「これは無理」など厳しいコメントもあるがその理由が詳細に書かれている。

↑  TAさんによる添削。「思います」といった、断定を避けたコメントで注意深く書かれている。

  

柴田 でもそれはね、僕の授業だとみんなものすごく自由に発言するでしょ? でも僕は自分が学部生や院生の頃にああいうことが全然できなかったんだよね。東大でもそうだったし、留学先のイェール大学でもそうだった。で、レポートを書くとなんとかなったりする。別にそういう学生を特にケアしたいとかいうわけではないんだけど、「授業では発言してなくても紙の上では全員が発言している」という場所を作ろうと思った。それは自分がそういう授業を受けてきたとかいうことではなく、教師をはじめたときにそうしようと思いましたね。

  

——あれはすごく勉強になりました。

  

柴田 あ、そうですか。よかったそれは。

  

——でも、添削という行為は危うさも孕んでいるというのを感じていて、先生のコメントは気にならなかったですけど、添削が行き過ぎて厳しいコメントが人格否定の域までいってしまうと、やっぱりハラスメントになってしまいますよね。でも逆にさっきの「放置」というのも、いい面もあると同時に悪い面もあって、今だと「ネグレクト」と言われる恐れがある。

  

柴田 そうなんだよ。レポートのコメントで厳しいというのもそうだし、あるいは普段の授業での発言に対する評価でもやっぱり厳しい人がいるっていうのはよくわかるんですけど、何が違うのかということを考えたときに、極端なことを言うならば、どうでもいいと思ってるとそんなに厳しくならない。どうでもいいというのは、学生のことがどうでもいいというよりも、東大でアメリカ文学を教えているという”東大のスタンダード”みたいなものがあるだろ、ということだね。その”スタンダード”を維持することの方が学生の気持ちより大事だと思えば、これでいいんだと思って結構きついことを言う。

 僕はそういう”東大の維持すべきスタンダード”みたいなものがあんまよくわかんなくて(笑)、でもやっぱり、相手が傷つくか傷つかないかというのはときどき考えることはある。翻訳家をやっててもまずは「読む人も訳す人間もハッピーでないといいものは起きない」という大前提はあるので、だから授業やっててもみんなが辛い思いに耐えて、最後に「辛い思いしたけどよかった〜」となることはたぶんなくてさ(笑)。辛い思いさせたっていいことはあまりない。っていうか、辛い思いをさせるほどの能力や資格がこっちにない、というふうに思うってことかもしれないですけどね。

  

——その「厳しさ」のラインなんですけれど、厳しすぎる人たちというのは一種のコントロールフリークになっていると思うんですよね。自分の基準や型がまずそこにあって、一方的に「そこにたどり着けよ」と思っている。そういう人たちの厳しさはハラスメントに結びついているのかな、という気がするんですよね。

  

柴田 うん。

  

——でもそういう人たちって、すべての学生に厳しくするんじゃなくて「えこひいき」をする。

  

柴田 その「えこひいき」というのは、評価する学生としない学生がいて、しない学生にキツくなるということ?

  

——いや、それがそういうわけでもない。

  

柴田 その「自分のスタンダード」みたいなものがしっかりあるとすれば、平等に厳しくてもいいはずじゃない?

  

——そうそう。でも、厳しい人というのは概して平等ではないですよね。

  

柴田 平等じゃなくなるだろうね、たいていの場合。

  

——そこが非常に気持ち悪いんですよね。平等に厳しいのならまだわかるんですよ。柴田先生のコメントはわりと平等に厳しかった(笑)。淡々としてますけど、切り捨てるところは結構切り捨てるじゃないですか。でも他の学生へのコメントを見てもどれもそうだから「そういうものなんだなあ」と思える。ただそういう場合でも、学生の思想の領域にまでは干渉しないですよね。

  

柴田 そうですね。やっぱり考え方は勝手だからね。……とは思うが、まあ一年にいっぺんくらい腹が立つことはありますけどね(笑)。たとえば黒人文学を読んだコメントが、「黒人の人たちも過去のことに文句ばかり言ってないで、いい加減前を向いたらどうか」みたいな。

  

——それはやばいやつだ(笑)。

  

柴田 あれは忘れない(笑)。

 

 

学生のコメント

 

——わたしが東大の授業を聴講してて特徴的だなと思ったのは、学生が結構はっきりモノ言いますよね。

  

柴田 言う言う。

  

——授業で扱う作品に対して「つまんない」とか(笑)。

  

柴田 そう言われて俺がどれだけ傷ついてると思ってるんだ!(笑)って。僕がつまんない作品も混ぜてるということは一切なくて、自分では全部いいと思ってるから、そう言われると人格を否定されているような気分になるんだけどさ(笑)。

  

——わたしは東大の別の先生の授業にも出てたんですが、その先生は毎回ディスカッションの時間をとっていたんですね。教室全体で30〜40人いるから、5人ずつのグループにわかれて話し合いましょう、と。そうしたらある時、学生がすっと手を挙げて、「これやる意味ありますか?」って(笑)。

  

柴田 そういうことが言える雰囲気は作っておきたかった。

  

——そういう空気いいなあと思ったんですよね。新鮮でした。あと、授業や教員のアンケート調査をどのクラスも学期末にやってますよね。あれはもとからあった仕組みなんですか?

  

柴田 あれはいつ頃からかな。僕が翻訳の授業をはじめたのが1992年ぐらいからで、その頃はなかったですね。だから僕は学期の最後の授業で紙を配って、自由に感想を書いてもらってた。で、はっきりいってその時の方がよかったですね。

  

——先生があのアンケートをはじめたんですか?

  

柴田 いや、僕が最初やってたのはそれを学部に提出するとかいうものではなくて、自分とTAだけが見るためのものだった。その後の参考にするってこともあるし、まあこっちも疲れたからさ、励ましの言葉をもらいたくってさ(笑)。でもみんな「この授業は大変だったけどよかった」みたいなこと書いてくれてたね。それが数年続いてたんだけど、たぶん2000年くらいからかなあ。その頃から学部が用意したアンケート用紙というのができてきて、「この授業にどれくらい出席しましたか?」とか「難易度はどれくらいでしたか?」とか5段階でつけるようなものになった。一応、「意見があったら裏に書いて」とは書いてあるけど、やっぱりそうなると自由な言葉の感想というのは聞けなくなるから、逆に学生の声は伝わってこなくなりました。

  

——わたしが早稲田で受けた中でも非常に透明性が高いなと思った授業があったんですけれど、それはアンケートというかペーパーに授業の感想や質問を毎回書いて提出して、翌週のはじめの10分くらいはそのペーパーへのコメントからはじめるような授業でした。そういうのがあると教員が学生個人個人と会話されている感があるのかな。

 

 

名前を覚えるということ

 

——あと先生を見ていてびっくりしたのが、全員レポートを提出して、その中でよかったのをいくつか先生が選んで、次の週に印刷して配るじゃないですか。それについてまたみんながコメントするときに、30〜40人いる学生の名前を先生がだいたい全部覚えてらした。そのことに衝撃を受けて。

  

柴田 僕はなるべく学生の気持ちをノセるのが教師の仕事だと思っていて(笑)。で、ノセるために簡単にやれることはいくつかあって、その一つが名前を覚えること。毎週レポートを出してもらって、それを返す時に名前と顔が一致するわけだよ。だから文学史の講義みたいにただ喋ってる授業では一人の名前も覚えられない。Aさんが出たあの授業は毎回レポート返すし、かつ学生が発言するからすごく覚えやすいんだよね。

  

——ふーん。

  

柴田 でも、それもね、最後の10年くらいでだんだん覚えられなくなっていって、それでどうすることにしたかっていうと、発言する度に名前を聞くわけだよ。それをメモに書いとくわけ。それが授業をすごく活発にしたんだよね。というのは、みんな発言するたびに僕が名前を書くから、「発言したらポイントがもらえる」って思ってるんだな。

  

——思ってましたね(笑)。

  

柴田 終わったらそのメモ捨てるんだよ(笑)。だからね、そんなこと考えたわけじゃなかったけど、授業にはすごく効果的だったね。

  

——「名前を覚える」って小さいようで大きな話で、わたしの見た感じだと、ハラスメントしがちな教員は学生の名前を覚えない傾向にある気がします。で、学生をカテゴライズして呼ぶんですよね。たとえば、わたしの場合はS大出身だったので「S大の子」といったり、あるいは読売新聞を辞めて大学院にきた先輩のことを「読売」といったり。そういうふうにあだ名やレッテルをつけて呼ぶ、それってやっぱりハラスメントの姿勢と直結しているなって思うんですよね。

  

柴田 なるほどね。

  

——対話ではなく、自分のもったイメージを押し付けて呼ぶ。

  

柴田 小説だったらさ、その授業のことを小説に書くとして、個人個人に名前をつけるより、それこそ「S大」とか「読売」とかにしたほうが、読者にはその分キャラクターについての情報にはなるじゃない。それが言われる側にとっては暴力に感じられるってこと?

  

——うーん。そうですね。わたしが早稲田にいる中で「S大の子」と呼ばれるのは、「君は早稲田のこの雰囲気を知らないでしょ?」と言われているような、疎外感を味わせるような言い方のように若干感じられました。まあ「S大」「読売」程度ならまだいいんですけど、たとえばトランスジェンダーの学生のことを「男の子女の子」と言ってしまったり、あるいは誰かのことを陰で「豚」と言ったりするのも耳にしていて、カテゴライズというのはそういうふうに容易に悪口に流れてしまう恐れがあるな、と思ったんですよね。

  

柴田 そっか。その辺はさ、20年くらい前だったらトランスジェンダーの人を「男の子女の子」と言うのって一種の親しみの表現とさえとられたかもしれないよね。そのあたりの意識はずいぶん変わってるから、それが暴力になっているというのは知らせたら直るポイントかもしれない。情報として。

  

——たしかに。わたし自身もいまだに男女で「さん」「くん」とわけちゃいますけど、わたしより下の世代はもっと敏感だから、男にむかって「◯◯くん」というと、ちょっと微妙な顔をされてしまったりする。そうすると「あっやべ、〇〇さんって言わなきゃ」って思って慌てて言い直すんですけど、そういうことはそっと教えてもらいたいですね。

 

 

学生とのつきあいかた

  

柴田 今の話の流れだと、僕がすごい学生に公平に接してきたように思えてしまうかもしれないんだけど(笑)、全然そんなことはなくて、やっぱり僕だって学生の好き嫌いはあって、「あの学生の発言は面白いな」とか「ああ早く黙んないかな」とか実は考えてるわけだよ(笑)。それで、そういうの外に出してないつもりなんだけど、やっぱりTAやってる院生からすると、もう見え見えだって言うんだ。

  

——いや、それはわたしにもわかります(笑)。

  

柴田 あ、やっぱりわかる?(大笑) 院生は「先生、体の傾きでわかります」って。

  

——ぱっと見わからないけど、「つまんないと思ってるんだろうな……」ってときは、先生なんとなく落ち着きがなくなる(笑)。

 先生のエッセイのなかでも、親しくされていた学生さんのことなど書かれているエピソードが印象に残っているんですけれど、やっぱり、教えている限り特に仲の良い学生というのはどうしても出てきちゃうと思うんです。

  

柴田 出てきちゃいます。

  

——そういうなかで気をつけられていることなどありますか? 飲みに行くとか、プライベートのつきあいとかはありました? 

  

柴田 飲みに行くというのはよくありますね。昼飯一緒に食うとかもあります。そうだなあ。院生だったら飯食うとか、ちっちゃなバイト紹介するとか、そういうようなことを、「このあいだはこっちにやったから今度はこっちかな」と、トータルでだいたいバランス取るようにすることはできるつもりなんですね。数人だから。だけど学部生にはそれができないからそこまで密につきあわなかった。僕は99年に本郷の英文科に移って、学部生に接する回数というか人数が増えた。その前は駒場の教養学科アメリカ科というところにいて、そこは学部生は一学年10人もいなかったと思うんですね。しかもその中で政治とか歴史とかやっている学生はあまり関係なくて文学の人間は2〜3人だったのが、英文科にいくと一学年30人ぐらいいて、その中でアメリカ文学は10人くらいだけど、それでも「あ、この学生たちにそういうことを公平にやるのはちょっと無理だな」って思った。だから、「こっちの学生にこのあいだラーメン奢ったから今度はこっちでバランス取る」みたいなことは、これだけたくさんいるとちょっと無理だと思ったので、学部生はしょうがないからもう引くしかないなと思って、あんまり授業外でのつきあいをしないようにしたかな。

  

——それはやっぱり差が出てきてしまうからということですよね。

  

柴田 そう。授業をしている限りでは、「このあいだ結構きついコメントしたから今回はもうちょっとエンカレッジングなこと言おう」とか、そういうことは考えますけどね。

 

 

大学における柴田さんの立ち位置

 

——若い頃の柴田先生はもっと尖っていて大学と対立していた、という噂を聞いたのですが。

  

柴田 いや、対立なんか全然してないよ。対立するってのは、大学に言いたいことが積極的にあって戦う、ってことじゃない? でも僕は逃げてたからさ。

  

——「大学なんか辞めてやる」発言は?

  

柴田 あ、それはしょっちゅう言ってた(笑)。それはなんかね、駒場の教師になったのが88年ですけど、90年くらいに誰かが「いつかあいつのことは殴ってやる」みたいなことを言ってたという話が僕の耳に間接的に届くわけ。それはよくわかるんですね。まじめに大学に尽くしている教師からすると僕は一番不愉快なタイプの教師だから。

  

——なんでですか?

  

柴田 つまりね、まず、大学に尽くす教師というのがいるわけです。いろんな委員会とかやって、それを最初はみんなやるんだけど、大学って有能なら有能な人ほど仕事が降ってくるわけ。そういうのに有能な人は会議会議の連続なわけさ。そういう人から見て、その種の仕事をやらない人間でも、学者としてきちっとした仕事をしている人ならまだ許せるわけ。でも、僕はそういう仕事は全然やらないで、翻訳出したりとか、呑気なエッセイを書いたりしていて、まじめに大学に尽くしたりしている人からすると僕は一番不愉快なタイプ。そこで「殴ってやる」発言がくるわけさ。で、殴られる前に辞めよう(笑)って。

  

——ああ、そういう意味で(笑)。

  

柴田 そう。だからその頃は夜ビール飲むときにうちの奥さんとも、いつどう辞めたら一番波風が立たないか毎日作戦を練ってた(笑)。その後、駒場でいろんな教育改革というのが始まるわけですけど、そのわりとはじめのほうで英語の統一授業というのがあって、少人数のクラスをつくるために、二つある英語の授業のうちひとつを大人数にして教材も統一にしてここで効率化をはかろうと、統一授業というのになった。それが〈英語1〉っていうんですけど、結果的に僕と佐藤良明さんがその教材作り中心になった。なりゆきっていうか、まあ要するに他のことやってないからおまえ暇だろってことだったんけど。

↑ 佐藤良明・柴田元幸著『佐藤君と柴田君』(新潮文庫、1999年)は、〈英語Ⅰ〉の教材作りに奮闘する様子など、東大の先生2人の裏側の日常がよめるエッセイ。

 

柴田 それをはじめたら、「あいつも少しは大学に尽くす気があるらしい」みたいな空気になってきて、「これで殴られそうもないな」って(笑)。それで僕も、こういうことやってるんだったら意味があるから別に辞めなくてもいいかなって思った。

 

——文学部の副研究科長になったのはそういう流れもあったんですか?

 

柴田 いや、それはもっとずっとあとで、1999年から本郷の英文科の教師になって、そこでも僕は大学には尽くさなかったですけど、わりと文学部行くとそういう教師がもっと増えるから、特に尽くさない人間には見えてなかったかな。いろんな委員会みたいなものも普通にやってた。僕が副研究科長になったのは、あれはたぶん陰謀で(笑)、誰が陰謀やったのかもだいたいわかるんだけど、そのこと自体は特に問題ではなくて、なんで陰謀が必要になったかということの方がたぶん大事でさ。やっぱり文学部がどんどん弱体化して「もういらないんじゃない?」みたいな空気が東大でもあるわけじゃないですか。そうなってくると、革命しかないだろう! とまではいわなくとも、今まで築き上げてきたものをきちんと守る、というレベルではなくて、無知でもなんでもいいから違ったことをやりそうな人間がいるんじゃないか? という文脈のなかで僕に票が集まったと思いますね。

  

——それで変わりました? 革命になりました?

  

柴田 ならないならない(笑)。全然ならない。

  

——2007年に沼野充義さんと現代文芸論研究室を作られたのはどういうきっかけだったんですか?

  

柴田 いや、現代文芸論も作ったのは僕でも沼野くんでもなくて上層部でさ。文学部の中にも歴史とか社会学とかいろいろあるよね。で、とにかく語学文学系が一番学生がこないわけ。ここをなんとか活性化しないといけないというんで、西洋近代という、沼野君が一人で露文とかけもちでやっていたものをもっとしっかりしたものにしようということで現代文芸論を作ろうって。でも新しい人間を雇う余裕はもちろんないから、じゃあなんか柴田はアメリカ文学以外のことやってるみたいだから、ってな感じでつれてこられた。まあ、「やらされた」といったほうが実情に近い。もちろん嫌ではなかったからね。単純に「やれる選択肢が多いにこしたことはない」という意味では作ってよかったので。

  

——わたし、柴田先生が自ら動いて、英文科のような既存の場所から離脱して新しいものをつくろうとしたのかな、と思ってました。

  

柴田 なんか僕ね、積極的に新しいものを作ろう、というふうに自分から能動的にやったことは一度もないんですよ。駒場の最初の〈英語Ⅰ〉という教育改革もそうだし、現代文芸論もそうだし、雑誌で『monkey business』とか『MONKEY』とかやってますけど、みんななんとなく人に言われて成り行きで決めた(笑)。自分からことを起こして、「この場所を変えよう」と思って何かをやったことは一度もないですね。

 

 

→インタビュー②  文学と運動のはなし