「仕切る奴は仕切る」

 

——そう言われて考えてみると、今まで聞いてきた柴田先生の「自分から動かない」という姿勢は、学生運動の頃から一貫してますね。

 

柴田 まあ僕自身は学生運動に関わった世代ではないけど、実際にあと数年早く生まれていてもたぶん動かなかったでしょうね。僕が駒場の教師だった頃は、学生運動だった頃の盛り上がりとかはもちろんないけれど、たとえば駒場寮を壊すという問題があって、京都なんかでは吉田寮をどうするかという問題がもっと大きかったみたいなんだけど、まあそれでも一応キャンパス内に機動隊が来るぐらいのことにまでは発展したわけさ。それは僕も駒場にいて本当に嫌だったんですよね。そういうときに、大学で学生をてきぱき抑える人は、聞くと学生運動の頃の闘志だったんですよ。だから、そっち側にいてもどこにいてもとにかく仕切る奴は仕切るんだよね。人間ってイデオロギーよりも、そういうときにどういう場所に立つかっていう違いなんじゃないかって。

 

——先生、『代表質問』の内田樹さんとの対談でも、「学生運動の頃にバリケードの中で仕切っていた人たちが、今は大学を仕切ってる」って言ってますね。

 

柴田 あ、そうそう。もう言ってるか(笑)。

 

——結局、威張る/威張らないかどうかの問題で、理念がどれだけ美しくても、やっていること自体は構造的には対立するものと鏡写しなのではとわたしも思います。全共闘で率先して大学と戦っていた人が、今は学生を抑圧する側に回っているとか。

 

柴田 はいはい。

 

——そういうのは皮肉だなと思うし、「仕切る奴は仕切る」ってその通りだなと思うんですが、とはいえ、〈村上春樹的諦観〉のようなものがあるじゃないですか。学生運動に対する冷ややかな姿勢。とにかく自分は距離を置き続けるという、そういう姿勢はわたしも非常に共感できるんですけれど、でもあの頃に諦観してしまってNOをはっきりつきつけなかったことによって、その残滓のようなものが今度はハラスメントといった形で現れてきているんじゃないかな。

 

柴田 うーん……。全然話変わるんだけどさ、なんかね、登校拒否の子供の親を見ていると、すごくみんないい人たちなんだよね。やっぱり筋の通る家庭で育つと学校行って筋の通らないのが耐えられなくてそれで行かなくなるのかな、と。もともと世の中筋が通らないもんだと思ってると、学校で筋の通らないことがあっても「まあそういうもんだ」と思ってそのままいくということがあるのかなと思う。それとおんなじで、もともと組織があれば、組織は何らかの形で腐敗するし、それは大学だろうが学生運動の側であろうが、もうそこで理不尽なことが起きるってのは当たり前のことなんだと思うと、それにNOを言う気にはならないだろう、と。

 

——うーん……。

 

柴田 でも難しいなあ。たとえば、人がすぐそこで殺されそうになっているのを見て、「いや、もう世の中理不尽だから」って言ってそれに対して何もしないのは、それはひどいだろうと思う。その線引きはどこにあるのかというのはわからないんですけれど。だから「傍観することも悪に加担することだ」というロジックはもちろんよく聞くわけで、だけどそれをどこまでそれぞれの文脈で言えるのかというのは結構難しいんじゃないかな。

 

——先生、それ「不登校新聞」のインタビューでもおっしゃってると思うんですけど。

 

柴田 あ、そっか。だいたいもう言ってるんだよ(笑)。

 

——あの記事で先生のおっしゃること、わたしも半分わかるんです。わたしも自分が当事者になってみるまではそういうスタンスで生きてきた。「もう矛盾を受け入れて生きていくしかないじゃん? もう生き延びるしかないじゃん?」みたいな気持ちもあったし、それに自分が文学をやっているということで、『グレート・ギャツビー』の冒頭の感じというのかな、フェアネスの感覚、「どんな人にもそれぞれ過去があるのだ」という許しの感覚ですね。そういう観点に立って生きてきたので、直接的に言語で何かを糾弾するということに対して距離を置き続けていたんです。

 

【グレート・ギャツビーの冒頭】

 “僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
 「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」”
 
 ——スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』村上春樹訳(中央公論社、2006年) 

 

——あらゆることに対して判断を留保し続けること、それが文学の立ち位置ではないか、とわたしは昔から思っていたんですけれど、自分が当事者になってみて思うのは、「今、すぐ、助けがほしいんだよ」ということなんですよね。

 

柴田 うんうん。

 

——実際、自分がセクハラの被害にあったあとも一年間わたしは黙っていたし、そのままわたしは黙っておくつもりだった。でも他のハラスメントの被害者を見て、やっぱり黙っていることは加担することだなと思って、そこでわたしの中では価値観がガラッと変わったんです。

 

柴田 なるほど。

 

——そういうこともあるし、あと、個人と組織との戦いだと全然フェアじゃない。対等なんかじゃもちろんないし、声を上げるということ自体にものすごく圧がかかってるんです。裁判で戦うにしても被害者は証言者を一人得ることがどれだけ大変か。そうすると、それまで頭の中で描いていた「中立」なんていうものは幻想にすぎなくて、傍観に立つということは必然的に組織的にのっかっちゃうということを実感するんですよね。

 わたしも以前は、#metoo運動に対してもちょっと距離を置いてきたいと思ってたんです。誰かが告発するたびに炎上する空気が怖かった。でも、だからといって、誰かが声をあげているのに自分は関わらないという立場をとりつづけることは、結果として強者側にのっかっちゃうんだということを今は感じます。

 

柴田 たしかにねぇ。つまり一つ一つの状況で、「ここで黙ってるのはよくないだろう」という判断と「ここで黙っておくのは仕方ないだろう」という判断があって、どっちの判断に転ぶかは、理屈の問題でもあると同時に文脈の問題でもあると思う。斜面がどっちに傾いて、どっちに玉が転がりやすくなってるか、みたいな。Aさんがやっていることは「黙っているのは仕方ない」とつい思ってしまっていたものを「これ仕方ないじゃすまないんじゃないか」という側に持っていくという、その文脈を変えるというか、「なんかしなきゃ」と人がまず思う側に押すということなんだと思います。

 

——わたしは3年前に告発して、そのあいだ他の件で告発しようとする人たちのことを周囲で見たり相談にものってきたのですが、たぶんわたしの案件はハラスメントの告発のなかからすれば「成功例」なんですよね。周りはどんどん挫折していっている。それは、証拠が得られないとか、協力者が得られないとか、あるいは仕事との兼ね合いや、タイミングとか運とかいろいろあると思うんですけど、それを見ていると、これはやっぱり黙って「中立」に立って見ていたら、どんどん声が消えていってしまうと思ったんです。

 

柴田 うん。「中立」は中立じゃないっていうこと、だんだんわかってきました——吞気な言い方で申し訳ないですけど。

 

 

ブコウスキーはブレない?

 

——わたしが今回、告発して裁判に進んでいくなかで失った一番大きいものというのは、やはり言葉への信頼でした。それは文学をやっている場で被害にあったからでもあるし、告発後に相手方と不毛な言葉のやりとりをする中で虚しさが募ったからでもある。それから、大学の調査が不十分なまま終わってしまったあと、同じように問題意識を持ってくれた友人たちとシンポジウムを開こうとしたんです。そこで登壇をお願いした人たちが、表向きにはフェミニストだったり、ハラスメントについて積極的に本や記事を書いたりしているような文学関係の人たちだったんですけれども、いざそこで喋るとなったときに、ことごとく断られてしまった。かといって、みな沈黙しているかというとそうでもなくて、twitterやネットに言葉は氾濫していて、イベントをやったり、本屋にいけば次々と新しい商品が並んでいる。そういうのを見て「文学って助けてくれないんだな」って思った。それで諦めてもう法律でやることにしたんです。

 そういうふうに言葉への懐疑が募っていって、やがて本が読めなくなってしまった。ノンフィクションはまだ読めるんですけれど、詩とか小説とかが全然読めなくなってしまったんです。どれだけ文章がうまくても、死ぬほど本を読んでいても、ものすごく心に響くような話を書いていても、その人が現実にそこに身体をもって現れたときに必ずしもいいことをするわけではないんだなと思うと。もちろん、文学者が人格者である必要はないんですけれど、わたしはある意味では文学というものを純粋に信じていた人間でもあったので、そこへの信頼が失われたのは大きな損失でした。

 で、そのときに唯一読めた作家が、ブコウスキーでした。

 

柴田 ほお。

  

【チャールズ・ブコウスキー】

1920年ドイツ生まれ。3歳でアメリカに移住。アメリカ各地を放浪しながら職を転々とし、小説を発表。その後は郵便局に長く勤めながら創作を続ける。酒とギャンブルに興じ、数多の女性と関係を持った。墓に刻まれている言葉は「DON’T TRY」。
 

——彼はすごいセクシストだし、暴力振るうし、自分でもなんでブコウスキーだけ読めるのか不思議だったんですけれど、その理由を考えた時にまずあげられるのは、正直さというのはあると思う。まあ、「正直に見える」というだけなんですけれど。あとは言葉が簡単だからというのもある。権威的なものに迎合しないというのもある。でも、一番の理由は「群れない」ということだなと思うんです。それは初期の村上春樹と若干通底しているような気もするんですが、ブコウスキーの場合は関係性をどんどん自己破壊的になし崩していく。「俺は有名になってみんなを見返してやるんだー!」みたいなこと言ってせっかく朗読会にいっても酔っ払ってすぐぶっ壊す(笑)。その「群れなさ」というのが救いになったのかと自分では思うんですよね。

 

柴田 いや、Aさんがブコウスキー を「ブレない」と言う言葉で形容したのは意外だなぁ。

  

——??? うん、「群れない」。

  

(・・・しばらくのあいだ「ブレない」と「群れない」の聞き間違い合いが続く・・・)

  

柴田 むしろ僕なんかはブコウスキーはいい感じに「中途半端」というか。実はあれだけ仕事のことを書いている人っていないんじゃないかと思う。郵便局でずっと働いてるしさ。つまり、筋を通したら「この仕事辞めてやる!」と言って、もっとアウトサイダーになりそうなのに、そうはならないで結構だらだら仕事してる。僕はあの中途半端な感じがすごくいいと思う。それはあれかな、僕自身が戦わないから「ああ、ここにも戦わない人がいる」と思って安心してみてるだけかもしれないけれど。つまり、「反抗者」とか「一匹狼」とか、そういう言葉が実はあんまり似合わないのかな。

 

↑ 長年勤め上げた郵便局での労働の様子が描かれている『ポスト・オフィス』(坂口緑訳、学習研究社、1996年)。パワハラ小説としても読めるかも。
“君らが仕分ける一通一通の手紙、毎秒、毎分、毎時、毎日、君らがノルマ以上に仕分けた手紙の一通一通が、強敵ソ連を打ち負かすのだ!”

 

——「群れない」というより、どういうコードにも回収できない、ということ?

 

柴田 ああ、そっちならわかる。

  

——『MONKEY vol.11』の「ともだちがいない!」特集の冒頭で、ブコウスキーがビート・ジェネレーションの一部として捉えられることは違和感があるって書かれてましたけど、わたしもビート族とはなんとなく合わなくて……。

  

編集部 友達の輪だからね(笑)。

  

——ブコウスキーって正直っていわれてるけど、伝記読むと「別に言うほど正直でもないな」と思うし、でも、じゃあ嘘つきかっていうと、そういうわけでもない。

  

柴田 だから、“テキトー”なんじゃない? 常に。

  

——作品量産してるし。でも、ブコウスキー の本を読んで、「この作品がすごく胸に刺さった」とか別にないんです。ただ言葉を通過させるというか。水が流れているような感じで、抵抗なく読めたんですよね。

  

柴田 なんですかね。僕も自分の翻訳について読者がどういうこと言っているか気になるからtwitterを見るわけだけど、僕がブコウスキーで翻訳したのは『パルプ』だけなんですが、今まで翻訳した本の中で一番『パルプ』が言及されてるんじゃないかなあ。「『パルプ』読んだ!」「なんだこれ?」というのが一番多い気がする。

 

↑ それまでの自伝的スタイルから一新して書かれた探偵小説『パルプ』(筑摩書房、2016年)。とはいっても、まじめに読もうとするとバカバカしくなるほど主人公はいい加減だし筋書きもハチャメチャ。白血病に冒されるなか1994年にこの作品を完成させたのち亡くなった。

 

柴田 さすが日本の読者はレベルが高い、と。アメリカなんかでは『パルプ』は全然評価されてないですから。

 

——あ、そうなんですか?

  

柴田 やっぱりアメリカはさ、まずはリアリズムでしょ。“ブコウスキーの人生”みたいなものが直接見えてくる方がいいんだろうと思う。

 

——なにかそういったものが立ち上ろうとするのをすぐ壊すじゃないですか、ブコウスキーって。ちょっと感傷的になってもすぐ壊すし。支配的だった父親と母親に対しても、辛い過去があったけれど許しになっていって……という物語展開にもできそうなところを別にほっといているというか。

 

柴田 そういう意味で「ブレない」か。

 

—— ???

 

柴田 でも『くそったれ! 少年時代』で、あのろくでもない親に、ろくでもない学校に行かされて、彼が文学に目覚めて、「これだ!」って思う、あれは結構本気で書いてるよね。ヘミングウェイとかもドライザーとかを読んで、「すごい! こういうのがやりたい!」って言って小説に投稿しはじめる。あそこだけはね。なんていうか、「ここに価値のあるものがあるんだ」っていうような姿勢をわりと崩さないと思う。だからダメとかそういうことでは全然なくてさ。なんていうか、方法的に自覚的に一貫しないんだとか、組み立てたら必ず壊すんだとか、常にシステマティックにやられるとそれはそれで嫌なんだけれど、ところどころ辻褄のあわないところもあり、筋の合わないところがあったりする感じも含めて、テキトー、中途半端、ということなんですけどね。

 

—— あ、わたし「ブレない」じゃなくて「群れない」って言ったんです!

 

柴田 「群れない」か! そっちかごめん(笑)。あ、それだったら話わかった。

 

——ブレブレですよね(笑)。

 

柴田 そりゃもう「ともだちがいない!」という号をやるとなったら、これはブコウスキーしかいないだろうと。

 

↑ 『MONKEY vol.11』(スイッチパブリッシング、2017年)の「ともだちがいない!」特集は、「ブコウスキーの作品は案外スラングが少ない。なぜか。スラングは仲間内の通り言葉である。ブコウスキーには仲間、友だちがいない。ゆえに彼の(自伝的)作品にはスラングが少ない」という思考の連鎖から生まれたとのこと。

 

 

じゃんじゃん揺らぐこと

 

——柴田先生ご自身は「おれ権力持っちゃってるな」って思います?

 

柴田 それは思わざるを得ないですね。なんというか、見た目とか振る舞いとか、わりと権力臭がしない方だとは思うんだけど、でもそうは言っても、長年の仕事の積み重ねなどが主因で、もう持っちゃってしまっていて、それが嫌な感じになってることもあるんだろうなぁ……。そう思うと切ないですけどね。

 

編集部 そこに敏感な人と、まったくそうじゃない人があるわけじゃないじゃないですか。それが結構いろんなところで問題を生んでる部分があるのかなって気がするんですよね。そのまったく思わない人というのはなんなんだろうな、と。

 

柴田 でも僕でも、授業やってると自分のこと絶対正しいとは思わないですけど——というか、幸いそう思えないのでそこで権力的な発言はあまりしてないつもりだけど——たとえば「日本翻訳大賞」の審査をやっているときに、この翻訳がいい翻訳か悪いかという話になると、「こんなのダメだよ」みたいなことは僕が一番きつく言う。「翻訳の正しさ」みたいな文脈になると、自分が絶対的な正解を持っていて、「お前らの言ってることみんな違う」という姿勢が平気で出ます。この言い方で人生すべてやってたらすごい嫌なやつだなって思う。そこの部分に入ると、なんか一気に文学賞の選考委員みたいな言い方になるんだよね。

 

編集部 でもそれは翻訳みたいな形で、厳然と自分の軸みたいなものがなきゃいけないところってのはあるんだと思うんですけど、それがそのまま教育の現場に持ってこられると……。

 

柴田 教育の現場でも、人によっては守るべき軸——さっきの話でいう「スタンダード」——があると思うっていうことですかね。だからそういう抑圧的なことを言う人は、翻訳について喋るときの僕自身も含めて、だいたいは自分のことを正義の人だと思うんだろうね。

 

編集部 審査員という場はまたちょっと特殊な権力構造な気もしますけどね。

 

——でもやっぱり柴田先生のいう「翻訳の正しさ」と、「東大のスタンダード」って根本的に質の違うものではないですか? 柴田先生の翻訳大賞での厳しさって、先生個人の中にある絶対的な軸で揺らぐことのない基準じゃないですか。「東大のスタンダード」っていうと、わたしにはなんかもっと同調圧力的なものに聞こえるんですけれど。

 河合隼雄は『母性社会 日本の病理』のなかで「場の倫理」と「個の倫理」という概念を使っているんですけれども、「個の倫理」では、各々が強く自己主張しあって、そのあとで平衡点をなんとかして見出そうとする。一方「場の倫理」では、自己主張したいことはあっても直接言語で表現するのではなくて、いかに場の平衡状態を壊さないか、いかに間接的に表現できるかが大事で、「察する」能力が求められるとされてるんですね。そして西洋では「個の倫理」が強く、日本では「場の倫理」が強い、と。

 で、わたしからすると柴田先生の厳しさって「個の倫理」なんですよ。先生の授業では言語化できないことに対しては非常に厳しいですけれど、その厳しさは誰に対しても平等で、レポートや課題も大変だけど全員に等しく与えられていたと思うんです。でも話を聞いていると、「東大のスタンダード」というのは具体的に言語化できるようなものではなさそうですよね。もっと曖昧模糊とした、人間が何人か寄ったときに自然とできてしまうような「場の倫理」なんじゃないかな。

 

柴田 そんなにいつもはっきり区別がつくのかな? 一人でも場は場であって、こういうふうにすべきだ、という参照枠が出来てしまって、あんまり考えずについそれに従ってしまう、ということであれば個の論理も場の論理とそんなに変わらないと思う。むしろ、「揺らぐことのない基準」なんてない方がよくて、じゃんじゃん揺らぐ、つまりその都度その都度「これでいいのか」自問すべきじゃないですかね。

 駒場で〈英語Ⅰ〉の運営をはじめたとき、何しろ3600人相手に同じ授業するなんてまったく初めてだから、プリント1枚印刷して配るにしたっていちいちやり方を決めていくわけさ。で、その場その場でいきあたりばったりに決めてくんだけど、一週間経つともうそれが「正しいやり方」になってるんだよね。実はほとんどの「伝統」ってこんなふうに出来上がっていくんじゃないかと思いましたね。反面、「人間が何人か寄ったときに自然とできてしまう」ことには、時に必然性があることもあって、そういう「伝統」にはそれなりの正しさ、というか有用性みたいなものはあるんじゃないかと思う。

 

——うーん……。たしかに一人でも「正しさ」が固定されてしまうとそこに権力が立ちのぼっちゃいますよね。ただ、その「正しさ」が誰にでも平等ならまだ許せるんです。でも、大概のハラスメントというのはそうではない。これさっきの「えこひいき」のところで話に出ましたが、厳しい人というのは往々にしてその厳しさが平等ではなくなっているのが不思議なんですよね。

 その理由を考えると、彼らの主張する「正しさ」というのは「個」の倫理のフリをした「場」の倫理の押し付けだからなんじゃないかな。彼らのやりたいことは本当は他者へのコントロールであって、でもタテマエとして、「指導」とか「スタンダード」とか「文学」のような一見すると基準のあるように見える言葉を使っているだけなんじゃないかと。つまり、実際には「場の倫理」に従わせようとしているのに、「個の倫理」のようにみせかけていて正当化されているせいで、される側はなかなか反論できない、そこに一種の気持ち悪さがあるのかなと思ったんですが。

 

柴田 場の論理になじんでいる人は、個と場を同一視することができるわけだから、「すり替え」という意識もないんじゃないだろうか。「正解は自分の側にある」と思えてしまうかどうかの問題だと思います。その文脈の中で権威のある人 がそうふるまったら、それはなかなか反論できないですよね。

 
——ああ、「場」の人でも自分では「個」の倫理だと信じ切っている可能性があるのか……。

 そういえばさっき、「いじめられる子が柴田先生のゼミにくる」っておっしゃってましたけど、「場の倫理」に反して排除された「個」の強い学生が柴田先生のところに自然と集まるのかな。ブコウスキーの「群れなさ」というのも「場の倫理」と対極にあるような気がする。

 

柴田 彼らのその後の活躍(笑)を見ると、事後的にそうなのかなとも思う。ただ、当たり前のことを確認しておくと、僕の個が強いから個の強い人が集まるわけじゃないです。それと、僕の授業や読書会になじめない人から見れば、もうすごい、今まで言ってた最悪の意味での「場の論理」のにおいがすると思う。

 

——そっか。もしかしたら合わない人もいる可能性はありますね。

 いずれにせよ大事なのは意識化するということなのかな。その「場」に合わない人もいるだろうということを自覚したうえで、自分の「正しさ」が権力ふるっちゃってるなと気づいたら「じゃんじゃん揺らぐ」こと。そういうしなやかさを各々もつことが、ハラスメントの生じやすい閉鎖的な空間にならないためのコツかもしれないです。

 

柴田 「じゃんじゃん揺らぐこと」という原則も時に揺らぐ必要があります(笑)。

 

 

→インタビュー③ 丸ごと受け止めて読むということ