法律の言葉の「垢落とし」

 

——話変わりますが、『現代語訳で読む日本の憲法』を読んだんですけど、あれおもしろくて、条文という固定的に捉えがちなものを、正文と新訳と英訳とを比較することで、法律というのはブレないものとしてそこにあるのだ、という思い込みを覆されるような体験でした。

 

柴田 あ、ありがとうございます。

 

↑『現代語訳で読む日本の憲法』(2015)の新版、『対訳 英語版でよむ日本の憲法』(アルク、2021)。音声ダウンロードとアメリカの憲法もついてくる。

  

 【新訳と正文と英文の比較】
 たとえば第13条はこんな感じ。
  
 ・新訳(柴田訳)
 「人はみな、個人として尊重せねばならない。生命・自由の権利、幸福を追求する権利は、それが公の福利を妨げないかぎり、法律の制定をはじめ国政において何より尊重せねばならない。」
  
 ・正文
 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追及に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
  
 ・英文
 “All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.”
   

 

——読んで大きく違うと思ったのは、「国民」という語が新訳では「人びと」になってるところでした。この本の中でも書かれてますが、「国民」という言葉は「公」と「民」という二項対立の一方としてある気がするし、それだと「治めるもの/治められるもの」の図式にのってしまう。それに加えて「国民」という言葉の響きは、なんとなく国籍によって括られている感じがするんですよね。それを「人びと」という言葉に訳されたことで、もっと広がりが出たなと思いました。改めて正文を読むと、「国民」「国民」と何度も反復されてるんですね。そう連呼されると、輪に括られているような気もするし、抑えられる側だという印象が……。

 

柴田 あ、でも、憲法が成立した時点では、国民という言葉の下に2語つけるとしたら「国民主権」でさ、「これからは国民の方に権利があるんだ」っていう流れもあったわけさ。どんな言葉もずっと使っていると垢がついてくる。だからつまり、新訳をつくるっていうのは「垢落とし」ですよね。むしろ「国民」という言葉が本来持っていたような響きを、今度は「人びと」という言葉でなんとか復活できないか、ということなんですよね。そこは単純に時代とともに言葉の劣化はどうしても生じるので。

 

——ああ。それが法律の世界でもあるというのは新鮮でした。

 

柴田 こんど改訂版出すんですよね。あれにアメリカの憲法も入れる。

 

——自分が裁判をやっていても思うんですけれど、時代時代の社会通念によって裁判も変わっていくもので、意外と司法は絶対的・固定的なものではないのだなというのも体感してます。

 

編集部 両方ありますよね。通念の部分もあるから絶対的じゃないとも思うし、ある程度個人に委ねられてるから、通念に毒された人たちがいればそこは壁として立ち塞がる瞬間はある。その両側のなかで、でも絶対的じゃないんだな、ってことが見えるような感じがしますよね。

 

柴田 まあとにかく法律は言語で出来ているわけで、曖昧さを含まない言語なんてないですからね。

 

 

ハラスメントをした作家の作品の受け止め方

 

——最後に伺いたいんですけど、ハラスメントをした作家や芸術家の作品をどう受け止めていいのか、わたし自身よくわからないんです。たとえば、ウディ・アレンの作品をわたしは好きでまだ見ちゃうんです。ブコウスキーにしたって今生きてたら告発されてるだろうなって。

 

柴田 ああ、もう間違いないです。

 

——そういうことに対して潔癖になりかけた時期もあるんですけど、でも、ある種の寛容性を持っていないと生きづらいな、というのも自分の実感としてあって。

 

柴田 昔はそういうのをさ、「英雄色を好む」とかいって片付けたわけでしょ。それは流石に違うだろ、と思う。さっき言ったような「これはどれくらいOKなことか、やっぱりちょっとまずいんじゃないか」ってことは、それこそ時代で変わるので。

 

——うん。

 

柴田 そういうのが読むときに影響しないのはおかしいと思うし、それだけですべて判断するのもおかしい。フォークナーが黒人差別だったからといって——何をもって「差別」と決めるのかもわからないけれど——「あんなの大作家じゃない」っていうのはおかしいけれど、でも、そういう部分がフォークナーにあったということも丸ごと受け止めて読まないとダメだろうと思う。っていうのは口で言うのは簡単だけど難しいですね……。なんて言うのかな、「割り引いて」じゃないんだよね。「大作家だけどそういう黒人差別がありましたから減点もあります」じゃなくて、「そうやって黒人差別があったということで丸ごとフォークナーなんだ」というふうに読みたいなって思う。それがどういうことかはわからないけれど。

 

——そうですね。だからそこで削除するんじゃなくて、対立の声を作り上げる、反対側の声もどんどん入れていくということですよね。

 

柴田 だと思います。

 

——ブコウスキーにしても、彼に本の中で書かれた女性が書き返すような本を出していましたけれど、そういう動きがもっと活発になるということが健全なのかなって思います。

 

柴田 そうですね。そう思いますね。

 

——なんかすごいいい感じに話がまとまりました(笑)。

 

↑ 膨大な数のインタビューや調査に基づく伝記、ハワード・スーンズ著『ブコウスキー伝 飲んで書いて愛して』(河出書房新社、2000)では、『詩人と女たち』のモデルとされた多くの女性が、承諾もなく自分との性生活について脚色して書かれたことに対し、怒りやとまどいの声をあげていることが明らかにされている。

 

↑ そのうちの一人、アンバー・オニールは、『”BLOWING MY HERO“(未訳)』という小説を書くことで仕返しをした。ぜひ日本語訳が欲しいもの。

 

 

 

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