嫌がらせに嫌がらせで対抗したのが大学の起源——学生とは悪意に満ちた存在だった
——最後に「大学とは本来どういう場所だったのか」ということを考えていこうと思います。大学ってさいしょは校舎がなかったんですよね?
栗原 もともと大学は中世フランスのパリか、イタリアのボローニャが起源だといわれているんだけど、どっちもいまみたいな校舎はなかったようです。フランスだと「勉強したいな」って思った若者たちが頭のいいひとをみつけて、「先生、勉強教えてよ!」といってセーヌ川沿いで勉強してた。
——楽しそう。
栗原 ボローニャでも同じですね。たまたまアラビア語関係の翻訳をやる人たちが集まってたのかな。当時としてはそれが知識の最先端だった。それで貴族のなかでも次男坊、三男坊、家の跡を継がなくてもいいような若者たちが各地から集まってきて——イタリアも当時は「国」っていう感覚もあんまりなかったでしょうからね——互いの言語もわからないような人たちがボローニャに集まってただただ勉強してた。
言葉も通じないし、文化も違う人たちが出会って、「なんだコイツ?」みたいなことをいいはじめて、でも一緒に酒飲んだら「トモダチ!」みたいになって。そうやって騒いでいたら、地元の人から「ゴロツキどもがうるさい、排除しよう」とイジメがはじまってしまう。学生だけ、衣類や食料品の値段が高いんです。
——わー陰湿。
栗原 それで学生たちがブチ切れて、はじめて一堂に会すんですよ。みんなで話し合って、「じゃあ全員でこの街自体をサボタージュしようぜ」っていって、こんなに嫌がらせするんだったら出ていきますよ、そうしたらこの街の経済潰れますよって。そしたら地元民が折れて、すみませんでしたと。
そのとき、ともに闘った学生たちの集いを「ウニヴェルシタス」と呼んでいて、それが「ユニバーシティ」になった。だから校舎とか関係ないんですよね。大学は人の集まりです。
——「組合」ってこと?
栗原 うん。みんなで知恵をひねって嫌がらせに嫌がらせで対抗したのが大学です。そういう悪知恵を交換するのが大事だったんですよね。
——「学生ってのは悪意にみちた存在だったんだ」ってこと、栗原さん本に書いてましたね、「大学の根底には、まっとうな人間としてあつかわれなかった学生たちのふかい悪意がある」と。わたしはそれまで学生というとわりとイノセントなイメージを抱いてたので、けっこう意外でした。
“大学は不穏な場である。学生の悪意にみちている。しかし、その悪意こそが大学を誕生させ、ひとが生きるのに、もっとも重要な経験をうみだしてきた。もし大学がタダになって、もっともっと学生の潜在的な力を開花させ、それをめいっぱい表現させてくれる場所になったならば、わたしたちの身のまわりは、予想もしなかったような知恵でみちあふれ、しかも仕事にせかされる人生ではなく、好きなことを好きなようにやるのがあたりまえだとおもえるような人生がまちうけていることだろう。もちろん、いまの大学改革をみるかぎり、大学はまったくの別物に変容するばかりである。授業料の値上げは、学生から自主活動の時間をうばいとっているし、サークル部室や自治寮の廃止は学生の自主空間をあからさまに消しさってきた。大学の授業はキャリアデザインであふれかえり、学生は入学するとすぐに就活を意識させられる。このままでは、大学がかけがえのない場ではなくなってしまう。大学をとりもどそう。大学を学生たちの悪意でうめつくそう。” ――『奨学金なんかこわくない!』
——でも、悪意を持つことの重要さって、大学に限らずいえるのかなってさいきん思います。ハラスメントの団体にしても、なんか運動やってると、「まっとうな人間でなきゃいけない」みたいな変な意識がでてきちゃって、せっかく支配・被支配関係から降りて戦ってるはずなのに、だんだん窮屈になって、いいたいこといえなくなってくる。
たとえば、どうやって味方を増やしていくかみたいなはなしになると、他人の好感を得ることを考えてしまって、知らないうちにまた認知資本主義的な支配にとりこまれてしまっていたりするんですよね。他人に受け入れられることを軸や指標にしていると、結局、場所をうつっても同じ苦しみにはまってしまうんじゃないかな。
きっと、そこはもっとひらきなおっていいんですよね。「嫌われてなんぼ」みたいな。だから、組織と交渉したり、署名をたくさん集めたり、という次元の戦いももちろん大切ではあるんだけど、そういうこともやりつつ、一方で自分のなかの奴隷根性を根絶やしにするというか、そこに自明のものとして敷かれている場からいかに離脱していくか、降りていくか、という戦いの仕方も同時に大事なのかな、って思います。
栗原 他人に好感をもたれない訓練を積む。そういえば、ぼくのアナキストの師匠で矢部史郎さんという方がこんなことを言っていました。デモにいったら街の人たちに笑顔をふりまいてはいけない。中指を突き立ててツバでも吐きかけてやれ、と(笑)。
デッカい校舎はもういらない——コロナ禍で大学はどうかわっていくか
——で、さっきのはなしにもどると、はじめはボローニャやパリで学びたい連中が勝手に外で集まっていったところから、次第に校舎とか建物ができはじめていったんですね。
栗原 徐々にでしょうね。共有スペースを確保しておけば、スムーズに勉強会ができる。だからほんとは大学の建物って、原点としてはサークル部室とか、院生部屋みたいなもののはずですよね。建物って勝手に使えばいいだけのものだったわけで。
——やっぱりさっきいっていた「出会い」みたいなものが根本にはあったんですね。
栗原 人見知りの僕が、暇すぎて院生部屋でひとに声をかけてしまったのと同じように(笑)、せっかく同じ場にいるんだから、言葉もよくわからないけど、とりあえず話しかけてみようかな、という感じだったんじゃないかと。
——いまの大学は、高層ビル化に力を入れていて、キャンパスがどんどん立派になって、建物の存在感のほうがすごいですよね。寒々しいというか。
栗原 だらだらする感じじゃなくなってるんすよね。建物を前にしただけで、騒ぎたいという気持ちが萎えさせられてしまう。
——栗原さんとの対談で、白石嘉治さん(フランス文学研究)が、どの時代でも文明であるかぎりやっていることはおなじで、とりあえず大きな建物をつくるということだ、と指摘していますね。ピラミッドであれ大学の建物であれ、結局は文明による支配であってマウンティングにすぎない。だから大学は建物ではないときちんといわなければいけない、と。ずっとつづいてきた文明の歴史からみても、大きな建物というのはけっこう重要な要素なんだな、って思いました。
――栗原さんが評伝をかいている一遍上人も「建物はいらない」っていう運動をやっていたんですか?
栗原 建物どころか、最初は服すらいらないといって、裸で全国を歩いて風邪をひいて死にそうになったりしていました。
——究極のミニマリスト(笑)。こんかいコロナの影響で大学の授業がオンラインになっていって、多くの学生にとっては「大学って建物いらないんじゃね?」ということがわかってしまったわけですよね。実際、「なんで学校いってないのに学費払わなきゃいけないの?」という怒りの声が上がっているというのも耳にしますが、こんかいのコロナは「デッカい建物なんか必要ない」という、ある種、大学の原点に近いところに立ち返るきっかけにもなっているのかな。
栗原 うーん。その代わりオンライン授業では、大学にとって最もだいじなものが失われてしまっていますよね。ウニヴェルシタス。有象無象の集い。悪意を育むその機会自体がなくなってしまっています。
知識のヒエラルキーとハラスメント ――共同財と横道にそれること
——栗原さんは本の中で、「知識というものは、誰にも独占することができないものだ」というふうにいっていますね。その根拠としてあげられている「共同財」の概念はどこからきているんでしょうか?
栗原 白石嘉治さんです。知識は「使っても減るもんじゃないでしょう」と。むしろ使えば使うほどバンバン膨らんでいくというのかな。使えば使うほどぜんぜんちがう知恵になっていく。だいたい僕らはものを考えていくときに、気づいたら一遍上人が言ってたことを使ってるかもしれないし、ソクラテスが言っていたことを使ってるかもしれないけど、でも勝手に使ったからといって、一遍もソクラテスも「オレの所有権が侵害された、訴えるぞ」とか言わないですからね。誰でも使ってよくて、使っていいからこそ、わけのわからぬ知恵がどんどん生まれてくる。そういうのって、「商品」を所有するという発想とは違いますよね。自分の所有物を使ったらすり減って価値が下がる、みたいな。
――大学での授業を「教育サービス」といういいかたをする教員がいるんですが、それはまさに知識を商品とみる考えかたですよね。そうなると、知識というのは常に教員側にあって、それを自分は学生らに与えてやっているんだ、という意識が強くなってしまうし、そういう意識がハラスメントにつながっていくのかなという気がするんです。栗原さんが「知識のヒエラルキー」と呼んでいるように、知識には優劣があると勘違いしているんじゃないかと。
もちろん、大教室で大人数相手に教員一人が喋る予備校みたいな授業もあるけれど、本質的にみればそれだって、ゼミのように平たい関係性で意見を交換できるような場とかわらないはずで、学生と教員をたんなる生産者と消費者としてとらえるようなサービス関係というのは大学ではなりたたないんじゃないかな。
編集部 なりたたせちゃいけないけど、サービスだと思ってやっている人はたくさんいるでしょうね。知っていることをわかりやすいように伝えることが仕事だ、というふうに思うわけですね。
栗原 教員は正しい知識を所有している、というその発想自体がヒエラルキーを生みだすし、そういう教育のありかたが普通になっちゃうと、学ぶことで正しいことを身につけるだけになってしまう。人間がどんどん正しさに囚われていく感じがしますよね。
編集部 サービスっていっちゃうと、その「正しさ」みたいなものをいかに身につけるか、ということになっちゃいますからね。
——方向性が定まっちゃうってことなのかな。学生の側もサービスだと思うと消費者として受け身になりやすいですよね。
編集部 ひとりひとり違うんだからそこは別々であってほしいですよね。
――だから、ネグレクトの教員に対しても「いや、お金払ってんだからちゃんと授業やれよ」といってすむはなしではなくて、もっと根本的な問題である気がします。裁判だと法律にのっとっていわなきゃいけないから、債務不履行だとか、大学には使用者責任があるとか、そういう次元で話さなくちゃいけなくて、それはそれで必要ではあるとは思うんですけど、教育の本質を考えていくとそれだけではないんだよな……。
でも、それって大学だけの話に限らなくて、日常で人と接するときと同じなのかな。たとえば、友達と集まるにしても、数学はこいつが得意だけど、料理はこっちが得意だから料理教室はこっちの家でやって、とか、いろんな得意分野があって、別にそこに優劣はないし、その日その時で「先生」みたいな役割をする人が代わっていく。友達と集まって遊ぶのってだいたいそんな感じがするんですけど、教授というのもたまたまその科目については専門家というだけで、人間としての価値が変わるわけではないし、大学というのも日常の延長に、ただ偶然の出会いがつくられていく場としてあるんじゃないかな。
栗原 せっかく人が集まってきたのに、その料理上手が手抜いたら怒りますよね。(笑)。別に商売じゃなくても。
——知識をヒエラルキーと思ってしまっている人は、自分が持っている知識をあまり変えたくないのかもしれないですね。でも、知識って変わるものですよね、ふだんの会話でも。今日だってわたしは一応きこうと用意していたことはあったけど、やっぱ途中から手綱がとれなくなって、そこからこういうふうにたまたま思いついたことを喋っていって、そこでまたみんなからたまたまこういう返事がきて、そこで新たなものが生まれていく。なんか会話それ自体が生きものみたいな感覚がする。
栗原 僕も今日喋ってなかったら、「あ、学生に自由があったから教員にも自由があったんだな」とか思ってなかったからですね。会話って自分でも思ってなかったことをふっと思わせることがあると思う。だけど、教育をサービスと思ってたり、教員が上から知識を授けるという感覚があると、その知識が横道に逸れていかないんですよね。
——閉じ込められてしまいますよね。
栗原 むしろ自分は大学に数学をやりにきたたんだけど、さっきの料理上手な人から料理をおそわってみたらおもしろくて、気づいたら料理人になってたって別にいいわけですからね。会話や知恵の交換には、そういうことを引き起こす可能性がある。
サービスじゃなくて共同財として教育を考えるおもしろさって、この横道に逸れることにあるんですよね。そして、それがほんとの意味でものを考えるってことじゃないですか。
——意図していなかったところに自然とたどりついていくというか。
栗原 実は対面で授業をやっていれば、教員はあまり心配しなくてもいいんですよ。授業後、学生たちが「あの教員はクソだぞ」とかくっちゃべってくれたら、それが共同財になっていくんだよね。
——「あいつの授業つまんねーよ」というのも一つの学びですよね。
編集部 どうつまんなかったか考えるでしょうからね。
栗原 その授業がおもしろいと思っていた子でも、他の子が「つまんない」っていってるのをふと耳にしただけで考えるでしょうから。
——オンライン授業だけ受けているとそういう余白な的要素が削ぎ落とされてしまいますね。そういう意味ではコロナは学生にとってやっぱ危機的状況でもあるのか……。これから日本の大学はどうなっていくんでしょうかね。
今日、こうやってみんなでだらだらはなしてみて、なんとなく、カネにしても建物にしても知識のことにしても、「執着」「ケチ」ということがけっこうキーワードなんじゃないかな、と思えてきました。だったらこっちは、おそらく奴らがもっとも苦手とする「手放すこと」とか「持たないこと」で対抗できるのかな。
栗原 捨ててこそ!
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