良い先生ってなんだろう?
——森さん『もう革』のなかで、高校のときの先生のこと書いてましたよね。
森 はい。中村啓司さん。
——読んでてすごくいい関係だなと思いました。
森 実はいま何されているかわからないんだけど、中村先生との出会いはよかったですね。僕が行ってた高校って雰囲気が自由だったし、私服だったし、タバコ吸ってもなんもいわないし、よかったんです。中村先生はすごい嫌煙家で、遠くにいても「タバコの匂いがするっ……」っていって、こっちきて、「また君か!」って(笑)。「タバコは外で吸ってください。でも捕まらないでね」っていう感じで。
——何の先生だったんですか?
森 政治経済と倫理ですね。もともと高校の教職員組合のえらい活動家でもあって、教科書を書いてる人でもあるんですけど、ぜんぜん教科書は使わずに、「ひとりひとり喋りたい内容を発表してください」って、毎回それだけで一年終わるんです。当時の政治家のこともボロクソに批判してたし「ああ、左翼ってこういう人なんだなー」って影響受けた。僕、都立高校にいたんですけど、当時の都知事がひどいこといっぱいやってたので、それに教員が反抗してストライキとかをよくやってて楽しかった。ストライキやると学校行っても授業なくなるからラッキーって。
僕も生意気だったので、授業は出たり出なかったりだった。で、学校の制度的なことに「こんなに自由だ自由だっていってるくせに自由じゃねえじゃねえか」みたいなことをいったんですね。体育祭とか合唱祭とか大嫌いだった。同調圧力とかすごいし。そうしたら中村先生が「学校というのは実は監獄と一緒なんだ」みたいな話をいいだして、「そうだそうだ!」と思ったら、その翌日にフーコーの『監獄の誕生』を渡してきて、「これを読みなさい」っていわれたんです。いま読んでも難しいのに高校生が読めるわけないじゃないですか(笑)。
森 読んでみてもおどろおどろしい処刑の方法の話が書いてあって、わけわかんないし、「なんなんすかこれ?」っていったら、中村先生が「じゃあもう少し入門書のほうがいいかねえ」みたいな感じで、中村雄二郎っていう哲学者を教えてもらったりしたのかな。そうやってちょっとずつ哲学なるものに興味関心をもっていった。
——押し付け感がないですね。
森 なかったっすね。「こういう本読んでみたら」って、その一言だけでしたね。
——そういういい先生と、ハラスメントにつながるような教員の違いってなんなんでしょう?
森 中村啓司先生とかは、ほんとに「いい先生ってこういう人だな」っていうのを経験できた。高校は好きじゃないですけど、その先生がいたのはすごいよかったですね。
——高校のときとかって、生徒は間違えるじゃないですか。わたしも中学・高校はヘイトスピーチしてて(笑)、高校2年のときに社会学の授業をとったんだけど、授業コメントで過激な発言ばっか書いてたんですよ。でも先生は全然怒らなくて、本とかマンガとか毎週貸してくれて、それでわたしも疑問が芽生えて、教員室いって先生とちょくちょく議論してた。その先生との出会いでいろんなことに対して真剣に考えるようになったんです。
わたしが思うに、若い子たちの思想がヤバくなるのって彼らのせいだけではないし、そのあとでいくらでも変われるから、あんまりそこで急な変化を求めないというのかな。急に変わりすぎたものってあとで反動があるような気がするし、長い目で変化していくのを見守ってくれるような、生徒が自分で物事を考えられるように自主性を伸ばしてくれる余裕がある先生がいいなと思いますね。
森 あ、それで久々に思い出した。ちょうど僕が高校生のとき、小林よしのりってすごい流行ってたんですよ。
——右翼の人?
森 そうそう。『ゴーマニズム宣言』って漫画がすごいヒットしてて、僕も高校生とか中学生の頃、すごいバカだったけん、そういうの読んで、多少感化はされて、ちょっと右翼っぽいことを考えて世の中を見るようになってた時期もあったんだけど、中村先生に相対化された。それも押し付けではなくて、「そういうのもあるかもしれないけどこういうのもあるよ」みたいな仕方で、僕の中では右翼から左翼に転向(笑)をさせてくれたような感じがありましたね。
——うんうん。
森 その頃、友達が自殺して死んじゃって、最初は僕は自分のせいにしてたんですけど、だんだん「これ、自分のせいでもあるけど社会のせいよね」ってなったときに、パッと思いっきり左派的に——って言い方はあれですけど——考えるようになったら、世の中のいろんな問題とか見えやすくなりましたし、これは半分逃げなのかもしれないけれど、自分のせいじゃなくて社会のせいにすることによって、自分も癒されていった。だって、人の死なんて、たったひとりの人間のせいで起こることではないし、そういうふうに捉えられるようになったのはよかったと思うね。
——そういう深いレベルで、生徒の精神的基盤にいい影響を与えてくれる先生の存在って大きいですよね。
指導教員からの暴言とアカハラ
——森さんが大学院で仲違いした指導教員のはなし、聞いてもいいですか?
森 ああ、はい。あれはマスターからドクターにかけていった阪大のときの教員なんですけど、結構気に入られてたと思います。一緒に翻訳やったり、飲み会のときも自分だけ彼の車に乗って飲みの場まで行ったりとか。だから仲悪かったわけでもないけど、まあ距離が近かったんです。それがゆえに起きたことでもあるんですけど。
ちょうど3.11があって、その1週間後に長男が生まれたんですけど、こっちも若干パニック状態だし、てんやわんやだったんですね。その頃ちょうど複数人で共著で本を作らせてもらえることになったんです。座談会とかもやって。それで出版のはこびになったときに出版社の編集者の方から、「これだけ大きなことが起こったんだから、直接関係ないかもしれないけど3.11のことについて一言でいいのでみなさん書きませんか?」といわれたので、それぞれ著者の方に任意で書いてもらったんですね。だいたいみんな政府のダメな状況とかを糾弾している人がほとんどだったんですけど、そこに僕の指導教員は「こういうときは昼寝でもしていればいい」って書いたんです。
——うーん。
森 なんか彼を擁護するようになったらイヤなんですけど、一応それには参照先があって、実は吉本隆明(思想家、詩人)がそういうことをいってたんです。でもそこには文脈というものがあって、吉本がいってたのは「社会運動とかやっていても疲れることがあるから、疲れたときは昼寝でもして休んだら?」という、本来的には優しい意味合いなんですけど、その指導教員はそういう文脈をぶった切って、吉本隆明という参照も示さずに書いたんです。
それでその本は出版されたんだけども、僕はもやもやして解せなくて。当時ちょうどプルトニウムの半減期(※ 放射性物質が半分に減るまでの期間)が2億年かかるという話がでていて、twitterかなんかで彼とまたやりとりをして、僕もギャーギャーいってたんです。
——運動やっている人がいうならまだしも……という気がしますが。
森 まあ他の人の意見だと、僕が社会思想みたいな発言をするのが指導教員は嫌だったみたい。僕はそれまで哲学者街道まっしぐらでいたから、指導教員は僕に普通にドクターまで行って就職してほしかったらしいんだけど、社会思想の方にいくと色眼鏡でみられて就職しにくくなると判断した部分もあるらしい。それもわからないでもないんだけど「でもそんなこといってらんねえしな」って感じで、僕はいろんなデモに参加したりワーワーやってた。それが目に余ったようで、彼は「そんなことしてないで勉強しなさい」とかいってきていた。
あるときそれがパーンとはじけたときに、彼は「放射能がこれだけ拡散してるとかいってるけど、俺には関係ない。だって俺大阪だし」といい出したんです。僕は「いや、別に大阪も飛んできてますよ」といったんですけど、そうしたら彼は「いや俺には関係ないね。放射能で誰が死んだって関係ない。お前の子どもが死んだって関係ない。お前の子どもなんて放射能で死ねばいいじゃん」っていったんです。
「いきなり子ども?」みたいな。腹も立ったし、カチンときたし、もちろん泣きそうにもなったし。「子どもに関してはお前関係ねえだろ」って。殴ろうと思ったんだけど他の人に止められて。そのとき実はシンポジウムのときだったんです。僕も登壇者で、その指導教員もいて、客も結構いて、始まる直前にそういうこといわれた。まわりもみんな見ていて「それはひどいよね」という空気になったんだけど、いつもの僕らのやりとりを知っている人は「まあいつものやりとりだよな」くらいにしか思ってなくて。
——ああ……。
森 ただ子どもに関しては、僕はそこだけは許せない。
——絶対に口にしてはいけない言葉ですね。
森 で、その場は我慢して、ムカムカムカムカしても、すごい抑えて、シンポジウムが終わって飲み会になったんだけど、喋る気にもならないから指導教員とは違うテーブルにいった。でも彼はいつもの感じに戻ってて、「あれ、森くんぜんぜん喋ってくんない」みたいなことを言ってきて。
——暴言を吐いた自覚がないのか。
森 その後、福岡に帰ったあともずっと悶々としてムカムカムカムカして。で、当時の助手に、この人なら話わかってくれるかなとおもって電話したら、「これはちょっとまずいよ」と言ってくれて、それから僕の中でももう少し整理されていった。それでまた他の先生にも相談したら「ハラスメント委員会ならちゃんと処理してくれると思うよ」といわれて、それで大学のハラスメント委員会ページをみたら、委員長がその指導教員だったんです。
——ああもう……。
森 で、これはもう言っても泣き寝入りだろうな、と。それから指導教員から「なんであのシンポジウム終わったあとに話してくれなかったんだ」っていうラブレターみたいなメールがきたんです。でも、僕が無視したら、2週間後くらいに今度はブチ切れたメールがきた。「俺がこんだけいってやってんのに、なぜお前は何にも反応しないんだ」って。1万字くらいあるクソ長いメールで、本人はカーっとなってるから、すごいひどいことがいっぱい書いてあって、「お前の博士課程、仮に論文出したとしても絶対に受理しない」とか。もうこの時点でアカハラですよね。受理するしないは客観的な指標でやらなきゃいけないことなのに何言ってんだ、って感じで。
——完全にアカハラですね。
森 それがあってもうだめだなと思って、僕は阪大から引いてったんですね。そうこうして阪大の籍がなくなる年に、学振の所属先が立命館大学になって、そこの受け入れ先の先生から「君、なんでいいかげん博士論文出さないの?」っていわれたんです。出さないと就職できないんですね。で、「いや、出したいんですけど、前の指導教員とこんなんなっちゃってて」といって相談して。その先生が面倒見の良い人で、僕と指導教員との間に入ってくれて、常にメールはCCでその先生を入れるようにと決まりをつくってくれた。それで指導教員とのやりとりがやっとはじまって、僕が「査読論文出していいですかね?」ってメールしたら、指導教員から「何の問題もありません。なぜ今まで出さなかったんですか?」って返ってきて、「はあああああ!?」みたいな(笑)。
——(笑)。
森 それで査読論文を出して、口頭試問があって、久々に指導教員にあってまた嫌なこと言われたらどうしようかなと思ったけど、副査に他の先生たちもいたので普通に公聴会をやって、審査も通って博士号を得た、という結末です。そっからはもう一切彼とは連絡とってないですね。僕の前後の世代は、その指導教員の権力でみんな助教になったりしてたんですけど、僕はもう一切無関係。そこにいたら仕事もあっただろうし、それをステップボードにして別の大学に入れてたかもしれないけど、もう関わりたくもなかったから、一人福岡でグジグジと非常勤講師をしました。
道ははずれてもいいんだよ
——話聞いてるとそれはかなり深刻なアカハラですよね。
森 うーん。まあ、物理的に離れたというのはよかったかな。その後、福岡に住んでても、彼に近い人はいたけど、事情をわかってくれて、その指導教員に出くわしそうな時は「あ、森くんいまちょっと来ないほうがいい…」と気にしてもらったりはしてましたね。
——とはいえ同じ研究分野なわけだし、やりづらくはありますよね。
森 自分の界隈の学会にいってもだいたい彼がいるから、もういかなくなっちゃった。
——それはやっぱハラスメント委員会の制度が破綻してるし、そもそも指導教員が学生との距離感を間違えている。教員って学生と仲良くなるのはいいとは思うんだけど、友達ではないってことを忘れちゃうと間違えますよね。……まあ友達でもそんだけ暴言吐かれたら許せないけどね。
編集部 友達にそんなこといわないっすよね。
——友達にはいわないような暴言を、立場を利用していってしまうのがハラスメントなんでしょうね。権力関係があるから学生は歯向かえないだけなのに、自分が何をいっても受け入れてもらってる、許してもらっていると勘違いしている。ハラスメントというのは基本的に甘えなので、暴言を吐いても許してもらえる関係性に甘えているんじゃないかな。
森 僕はこの件で訴訟起こせなかったし、運動起こしたとかもなかったっすけど、僕の経験だけでいうと、彼と物理的に離れられたことは大きかった。こっちは妙にヤンキー精神もあるから、学会とか行かずしても「やってやるぞコンチクショウ!」みたいな、自分は自分なりに、査読論文云々じゃない仕方で就職してやるし、みたいなところが僕にはあって、そうやって好きなこと書くようになってもなお大学に職は得られたので、むしろ、後進じゃないけど、若い人たちでも、査読論文とかも重要だけど、社会的に意味のあることを書いたりして、大学教員として就職してもいいんだよ、というか、道ははずれてもいいんだよ、ってことはいえるし、いってったほうがいい気もします。
——そうですね。いくらでも道はありますからね。
森 それに大学自体も、〇〇学の学者、△△学の学者、とか、うち(長大)みたいに教養系の多文化社会学部の哲学教員にはそんな専門的な人いらないんです。「カントにおけるなんちゃら批判のなんちゃらかんちゃらなんたらかんたら」なんていわれても通じないし、例えば全学の教養の授業で商学部とか工学部とかの学生は、そんなの興味もないし、つまんないでしょ? そうなると、もう少し一般にも開かれた仕方で哲学とか思想の話できる人の方が授業でも学生の食いつきがいいし、その上でカントとか知りたきゃしればいいわけで。別に哲学科だけが就職先じゃないし、多くの教養系の大学はそういう感じなので、好きなことやったらいんじゃないかな。
もちろん「なんちゃら学におけるなんちゃら」みたいな話も学問としては重要だしやるべきだけど、その一方で、それだけが好きだということはまずありえないので、フェミニズムやってもいいと思うし、アナキズムやってもいいと思うし、「ホワイトヘッドやってるけどマルクス主義やります」という人がいたって僕は全然いいと思っているので。そもそも学問というのは自由なんだから、なにやってもいいじゃんと思いますね。
——大学院で指導教員の下にいたり、学会のなかにいるときって、他にも世界があるんだってことがみえなくなっちゃうんですよね。
森 そうですね。また学会って嫌なところで、「誰々先生のところについてる誰々です」みたいなヘゲモニーがあるんです。「誰々のところにいるからあいつはダメなやつだ」「あの先生やばいよ」とか、そういう噂ばなしばっかりしていて、そういうのはもともとイヤだったんで、そこから離れられたのはせいせいとしたかな。
——そうね。ただ「それでよかった」というのはあくまで結果論ですよね。それで傷ついてないわけじゃないしさ。
森 まあそうね。
——わたしの場合は、2017年に指導教員から「俺の女」とか言われる前から1年半ずっと暴言を吐かれてて、わたしはユング派なんですけど「ユング派にはバカしかいない」とか「人間以下」とか日常的にいわれていて、それだってもちろん傷つくわけですけど、あるとき飲みの席で、わたしの個人的事情を他の学生に勝手にバラされたうえに、家庭の事情に首を突っ込まれて「お前なんか家族に迷惑かけてんだろう」みたいなことをいわれたのね。そのときはショックすぎて、すぐトイレに入って、悔しくって涙止まんなくって。
そのときいわれた暴言ってなかなか立証もできないし、向こうは「覚えがない、否認する」としか回答してこない。でも、わたしのなかには確実に痛みが残っていて、いまだに思い出すと苦しい。暴言を受けた傷って、どうやったら癒えるんだろう。
森 話しててもムカつきますよね。思い出すとまた腹立ってくる(笑)。
——そうそう(笑)。何回思い出しても絶対に癒えない。
森 またムカつくことに、そいつが死んだからって別に癒えないし、そいつが職を追われたからって癒えるわけでもないし。もうなんなんですか?って(笑)。
——そうなんだよね……。でもやっぱりわたしの場合は、そんなこといったって無駄ってわかってるのに、それでもまだ自分のなかのどこかに「ちゃんと謝ってほしい」って気持ちがある気がします。森さんはそういう気持ちはないですか?
森 謝ってほしいという思いはないですね。むしろこれは野望なんですけど、吉本隆明とかドゥルーズ(哲学者)をある読み方をすると、たしかにその指導教員のようになるという側面がちょっと見えたので、それを自分の研究というか言説の方で、自分で納得のいくようにぶっ潰そうと思ってます。ルサンチマンで研究やったってしょうがねえだろって思われるかもしれないんだけど、でもこれって重要なことだと僕は思っていて、吉本隆明ひとつとっても、すごい魅力的なところもあるし、ドゥルーズもそうだけれど、しかしその一方で、それらのあるところが増殖していくと悪の権化っぽくなるところがあるので、自分はそういう言説を潰していこうというふうには思ってます。それはもう10年以上たってもそうなので、なかなかしぶといですね(笑)。
ルサンチマンってだいたい時間が経つとパーっと後景に引いていくもんだと思ってたんだけど、案外そういうもんでもないというか、そこにまつわる問題というのがこの10年間で自分の中で整理されていったので、そういう言説が二度と起こらないように潰していくという意味で、学術的な意味でのドゥルーズ・吉本批判をやっているつもりです。哲学ってやっぱり論敵あってできることでもあるので。
——それもひとつの道ですよね。
森 もちろんそれをやったって傷が消えるわけではないし、わかんないっすけど、とりあえずそのくらいの駆動力にはなってるかなと思います。
——哲学にしても文学にしても、研究内容が「生きること」と被ってるじゃないですか。それなりに信頼してきた領域でひどいことをされると、それまでの人生で作ってきた自分の根底みたいなものが崩れません?
森 崩れますね。それまではドゥルーズは無垢に「革命のための理論としては最適だ」と思ってましたけど、今はもうワーっと崩れちゃって、「そうじゃないだろう」って仕方でドゥルーズを斜め読みしてる。
——距離置いちゃいますよね。
森 ドゥルーズって良くも悪くも頭でっかちな哲学なんです。「理念が生成することによって現実が変わる」という考え方なんですね。だから僕は自分の持ち場としては、ドゥルーズを読み替えるだったり、相対化したり、あるいは批判するという仕方でやっていくというのはひとつのモチベーションにはなってます。