言葉の持つ暴力性を自覚すること——発する前に“rethink”する

 

——わたしは大学院の受験のときから、川口先生にいろいろと相談にのっていただいてたわけですが、先生はわたしの話をきいていて、どのあたりから「その指導教員おかしくない?」と思われましたか?

 

川口 受験のとき、正式な合否の発表より前に、聴講に来るようにとWから言われたと聞いて、「大学院ってそんなにラフなの?」って、それはちょっと驚きました。

 

【ここでちょっと経緯の説明】
 2015年秋 Aさんは、小説家のH教授のもとで創作を学ぶために、文学学術院の現代文芸コースを受験した。
 9/22 Aさんは二次面接の最中に、初対面のW氏より「聴講」にくるように言い渡された。
 9/23 合格発表。
 9/23   Aさんは創作のゼミではなく、W氏の批評のゼミに入れられることとなり、「個人指導」がはじまった。
 9~10月 週4回ほど聴講を指示されたW氏の授業内では、Aさんが研究対象としてあげていた村上春樹・河合隼雄・ユング、およびそれらを信奉する人間に対して、「バカ」「最悪」「死ね」といった言葉を用いた「厳しい批評」が頻繁に繰り返された。
10月後半 Aさんは体調を崩すほど落ち込みながらも、W氏の「批評」に納得がいかなかったため、W氏の研究室に直接質問にいった。それ以降、AさんはW氏から二人きりで食事に誘われるようになった。
 12/12 学会の打ち上げの席にて、W氏によるAさんへの「スキンシップ」がはじまった 。

 

川口 入学前に授業を受け始めるって、まだ授業料を払っているわけじゃないから所謂〝もぐり〟だよね。もぐりで授業を受けるのは別に珍しくはないけれど、そもそも学生の側が「履修はしていないけれど興味があるので授業に出ていいですか」ってお願いして、そう言われたらたいていの先生はわるい気はしないから「どうぞ」ってなる、そういう流れのものだと思ってた。それを、先生の方からもぐるように指示するなんて聞いたことなかったから、ひそかにびっくりしました。

 

——そうですね。入学前から「個人指導」されるというのは、先輩たちもびっくりしてたみたい。

 

川口 とはいえ、そのときは好意と解釈しようとして、Aさんは早稲田にも慣れてないし、創作ではなく評論・批評のゼミに入ることになったもののそういう思考法にも慣れてないから、いろいろ早くなじめるように、という配慮なんだろう、と一応は考えたけど。

 

——わたしも不思議に思いつつ、「これが早稲田の校風なのかな」「大学院の指導ってこういうものなのかな」って思っちゃった。

 

川口 ただ、そのあとWの授業の様子や、Aさんの作品に対する講評の仕方など、ちょこちょこ話を聞くにつれ、違和感が大きくなっていきました。特定の作家——村上春樹ね——を執拗に攻撃する、その言い方の子どもじみた暴力性をAさんから聞いて、はっきり言って、引いた。文芸評論として特定の作品を否定的に取り扱うということは充分考えられるし、Wがもともと村上春樹の文学観を批判する立場で書いている人だとは認識していました。でも、そういう文学上の考えや姿勢の表明と、単なる悪口を言いつのることとは、全然違うだろう、と。「そんな雑な授業をやってるのか」って思ったんですよね。

 

——うんうん。

 

川口 Aさんは「Wの授業を聞いているのが苦痛だ」と言って、それはもちろん自分が価値を置いている文学を全否定されるのは苦痛だろうけれど、それ以前に、他人への悪口を繰り返し聞かされること自体が精神衛生上よろしくないから(※会社で同僚へのハラスメントを自分では何もできないまま傍でずっと聞いていて病んでしまう、という事例もありますよね)、他の学生はどう受けとめてるんだろうとか、いろいろ気になりました。

 

——学生間では「まあ、そういう人だから」みたいな、聞き流す空気になってたんじゃないかな。でも、言葉というものは場合によっては刃物にもなりうるのに、大学という場で、言葉の持つ暴力性に無自覚な発言が教員の口から次々とあふれ出てくることに対しては危機感を抱きました。ましてやWは言葉を扱うことを職業としている専門家なわけで、文章を学びにそこにきている学生は少なからず影響を受けてしまう。Wが「〇〇は死ね!」と大声でいっただけで教室から笑い声がどっと起こったときは、「これって異常じゃないの?」と恐怖を感じました。著書やtwitterで言ったらアウトになるような過激な発言が、どうして大学の教室内では笑って流されているんだろうって。

  

↑ 村上春樹も早稲田大学文学部時代に出会ったテネシー・ウィリアムズの悪口ばかりいう教員について、エッセイ集『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』で書いている。
“二十歳そこそこのものをろくすっぽ知らない学生が、偉い大学の先生から「こいつはアホだ、カスだ、タコだ」と一学期ずっと繰り返し聞かされていたら、やっぱりある程度マインド・コントロールされてしまうだろう。少なくとも僕はされた。” (「テネシー・ウィリアムズはいかにして見捨てられたか」)

 

——わたしすごくいい試みだなと思ったのが、海外で開発された「ReThink」というアプリがあるんですけど、メールやTwitter、Facebookなどでユーザーが誰かに攻撃的なメッセージを送ろうとすると、プログラムがそれを検知して「本当にこの内容を送りますか?」というメッセージが表示されるんですね。

 

↑ReThink公式サイト。これはトリーシャ・プラブという少女が13歳のときに開発を始めたものだが、きっかけは当時11歳の女子学生がネットのいじめを受けて自殺したことだった。実験段階では、メッセージが表示されることで考え直すチャンスを与えられたティーンエイジャーの93%が、SNSへの投稿を思いとどまったという結果が出ている。記事はこちら

 

——わたしは、セクハラだけでなく、W氏の「過激な批評」の不適切さについても主張しましたが、大学は、わたしの側が「批評的言説に慣れていなかった」ということを回答書面で指摘してきています。

 

↑ 2018年8月8日早稲田大学副総長島田陽一氏(当時)からの回答より一部抜粋(※ 一部表記を変更)。学生たちのタテカンを規制している早稲田大学は、学生側の表現の自由についてはどう考えているのだろうか。

 

↑2018年7月12日早稲田大学副総長島田陽一氏(当時)からの回答より一部抜粋(※ 一部表記を変更)。「死ね」というのが「文学的には生きのびるに値しない」という含意だったのなら、はじめから「文学的には生きのびるのに値しない」と言えばいいのでは?

 

 

——でも、そういう言葉に「慣れ」させてしまったらいけないんじゃないかって思う。大学の教室には、SNS同様、いろんな人がいます。目の前に平然とした顔で座っていたって、家族や身近な存在を失った人もいれば、震災にあった人もいるかもしれないし、心に深い傷を負ってユングや河合隼雄の心理学によって治癒されている人間だっているかもしれない。大変な目にあって村上春樹やエンタメ作品のおかげでなんとか日々を生きている人間だっているかもしれない。書き手というのは、そういうありとあらゆる可能性を念頭に置いた上で言葉を発するべきだと思う。そんな想像力を働かせることを怠ったまま、不特定多数の人の前で「バカ」とか「死ね」とか平気で言ってしまう人間の方が、よっぽど言葉の扱いに不慣れなんじゃないかと思います。

    

川口 学生さんたちが笑って流していると聞いて、悪口が〝W先生の芸風〟として受け入れられているのかと思ったんだけど、そういう関係性が出来上っていると外から何か言いにくいよねえ、って思って。でも今考えると、笑うことでその悪口に加担する……加担させられる感覚になるから、クローズドサークルの身内意識みたいなものを嫌な感じで強めてしまう、そこにも問題あったんじゃないかって感じます。

  

  

大学院ならではの危険性——指導なのかアカハラなのかがわからない

 

川口 それから、Aさんが自分の作品をわたしにも読ませてくれながら「W先生にこういうふうに言われたんだけど、どういう意味かわからないので教えてください」って言って。だけど、わたしもその〝W先生の言ったこと〟がどういう意味かわからなかったんだよね。わたしはだいぶ長いこと詩の講座の講師として、書き始めたばかりの人も含めていろんな人の詩を読んで講評してきたし、そのいろんな詩に対して他の受講者が感想を言うのも受けとめて、やりとりする仕事を続けてきた。だから、言葉が足りなかったり拙かったり、本人がまだつかみきれなくてあやふやなまま話したりしているときも、言おうとしていることがあればその真意を掬い取れるよう訓練してきたつもりです。けれど、そのわたしも、Aさんの作品についてWから言われたという言葉がちょっとどう受けとめていいのかわからなかった。いや、言葉の意味はわかるんですよ、でもAさんの作品に対しての言葉としてはまったく理解できないというか、意図がわからない。Wは小説を批評の対象としている人だから読み方がまったく違うのだろうとは考えましたけど、それにしたって……深く戸惑いました。言おうとしている真意なんかないんじゃないか、という疑いが抑えきれなかったですね。彼はもしかして詩を読む資質に欠けているんじゃないか、詩の要素の強いAさんの作品を的確に読み取って講評することができなくて、それをごまかそうとして適当に喋っただけなんじゃないか、と思ってしまった。だとしたら、なぜ彼が、Aさんの指導教員になったのかわからなかったし、大丈夫だろうか、って心配になりました。

 

——わたしも、他の先生や大学の外ではそれなりに評価されていた作品が、どうしてWにはこき下ろされるのか理解できなくて、すごい混乱していました。稀に褒められることもあったけれど、その理由も「いい顔つきになった」とか評価の根拠が漠然としていて、授業で一回も発表させてもらえてないのに成績A+つけられたり、具体的になにを基準に評価されているのかわからなくて困ってました。

 

川口 Aさんの場合は、わたしや他の人に作品を読んでもらって、「あれ、意見がだいぶちがう」って比べることもできたけれども、そうじゃなかったら本当に潰されてしまう。

 

——うん。わたしは運良く、川口先生やそばでみていた先輩がたまたま助けてくれて、大学院でも書き続けることができたんですけど、これでもし助けてくれる人がいなくて、Wからの指導だけしか受けられていなかったら、もっと病んで書くこと自体をやめてしまっていたかもしれない。

 そういう「アカハラなのか批評なのか」を見分けるのってむずかしくて、とくにまだ新人だとどういう批評が的外れなのか区別できないんですよね。

 

川口 最初はそうだよね。長く書いていると、他人から言われたことを「それはちょっと違うな」と自分のなかで流すこともできるようになっていくけど、最初は、どの意見が自分にとって正解なのか判断できない。的外れな批判をスルーする能力はいったいどうやって身につけたらいいのか……。わたしは、書いていることや書き方じゃなくて人格の話になったら基本は全無視でいいと思ってるけどね。「ここがうまく書けていない」「考えが足りていない」という批判が、「こういうものを書くおまえは○○だ」みたいになったら、まるっとスルーで。とはいっても、だいたい指導教員と学生の関係性で何らかの批判をされたらスルーしにくいよね。

 

——そう。「聞き流す」ができない。それが大学という場におけるハラスメントの深刻な部分だと思います。

 

 

↑弁護士法人 飛翔法律事務所編『改訂2版 キャンパスハラスメント対策ハンドブック』では、大学特有の問題として、
① 教員の成績・成果の評価権限が大きいこと
② 閉鎖的な環境にあること
③ 専門性が高いこと
④ 大学を辞めるという選択をしにくいこと
という4つの特徴が挙げられ、そのためにハラスメントの生じやすい要因が揃っているとされている。とくに③については、大学で取り扱われる分野は専門性が高いものが多いために、教員の成績評価や方針に対して周りの教員や職員は口を挟みにくいという状況が生じること、また、専門性が高いことと大学の教員という立場であることから、学生側が教員の言っていることは正しいはずだと思い込んで従ってしまう傾向も指摘されている。

 

 

性暴力被害に至るエントラップメント(罠)——加害者の予兆を知る

 

——わたしはWから「厳しい批評」をされて苦しいということは、結構まわりに話していたのですが、継続的なセクハラされるようになってから、日記に「気持ち悪い」と書いたりしてはいたものの、誰かに話すことができなくなりました。それは自分が性的に扱われていることを認めたくないという悔しさもあったからだし、それに加えて、それまでの「厳しい批評」に戻るくらいならセクハラを受けていたほうがまだマシだ、と、抵抗する気力が失せてしまっていたからでもあります。言葉で人格を否定されるよりは、触られているほうがマシだ、と。セクハラの生じる場ではパワハラも蔓延しているということはいろんな文献でも指摘されていることですが、下地としてパワハラがあるからセクハラされてもNOが言えなくなるんですよね。

——先日、裁判で書証として提出した『性暴力の被害の実際』という本では、被害者が精神的・物理的に徐々に逃げ道をふさがれてき、明確な暴力がなくても逃げられない状態に追い込まれて被害にあう「エントラップメント型」というタイプの性暴力が詳しく解説されています。

 

 【エントラップメント型】
 性暴力被害のプロセスには、(1)見知らぬ人から襲われる「奇襲型」、(2)飲酒や薬物を伴うもの、(3)家庭内性暴力、(4)日常生活の中で上下関係を作りあげ被害者を追い込む「エントラップメント型」の4つがあり、実際に調査で最も多かったのは、(4)の「エントラップメント型」であった。
 「エントラップメント型」は、特殊な状況で起こるのではなく、加害者が見知った人であっても見知らぬ人であっても被害が始まる。加害者は日常的な関係性や会話の中で、相手に対して自分の権威を高めるような言動、相手を貶めるような言動をし、上下関係を作り出し、精神的に弱らせることで、逆らうことができない状態に追い込み、逃げ道を物理的に遮断し、突然性的な要求を挟み込む。なお、職場や学校などといった、そもそも加害者が相手よりも社会的地位が高く、すでに上下関係が存在している場所では、エントラップメントは容易に進行されやすい。
 また、加害者は被害者に対して優位な立場にあるからといって、ただちに性暴力加害に及ぶわけではなく、加害者はその立場を利用して、被害者に対して性暴力加害の予兆となるような行動をとる。そのような「予兆的行動」としては、「セクハラ、モラハラを行う」「飲酒させる」「密室をつくる」の三つがある。
 ※斎藤梓・大竹裕子編著『性暴力の被害の実際 被害はどのように起き、どう回復するのか』(金剛出版、2020)参照 

 

——つまり逆に言えば、こういう「罠」や「予兆」にはやめに気づくことができれば、性暴力を事前に防げることにもなるのですが、とはいえ、現実には難しいですよね。わたしの場合、川口先生以外にも、入試のゼミ選考の時点ですでに不可解に思った人が多かったけど、周りの人たちは違和感を感じながらも、「大学院合格というおめでたいことに水を差したら悪い」とか、「これから入学なのに不安にさせてしまったら悪い」と、逆に気をつかって言えなかったみたい。そういうのって大学院に限らず、就職や結婚も同じと思うんだけど、人が喜んでいるときに「ヤバイからやめときな」とはなかなかいえないですよね。 

 

川口 「エントラップメント型」の性暴力については、わたしも漠然と思っていたことがAさんに教えてもらった本の文章を読んではっきり理解できました。巧妙に拒否しづらくなる心理や関係性をつくる罠。こういうことがあると知っていなければ被害者自身が気づくのは難しいし、被害を受けた後でも「エントラップメント型」という知識がないままだと自責の念にとらわれそうです。加害者も無意識に罠を仕掛けているケースが多いんだろうと想像するのですが、それがかえって卑劣ですよね。周りが先に不自然さに気づいたり違和感をおぼえたりしても指摘しづらいというのもまたその通りで……いや、ほんと、明らかにヤバイ相手と結婚しそうになっている知人がいても、本人がまったく気づいていなくて幸せそうにしてたら言えないですもん。難しい。やはり、こういうことがあるのだという情報の周知、共有が大事なんじゃないかな

 

——うんうん。

 

川口 それで思い出したんだけど、30年以上前に、会社の同僚の女性がお昼を食べながら「つきあってる人に殴られて鼓膜が破れた」という話をしたのね。聞いていたわたしともう1人はびっくりして、その人とつきあうのは考え直したほうがいいんじゃないかって控えめに言ったんだけど、当人は「こっちが殴られるような言い方しちゃったから」って笑うの。いやいやどんな言い方だったとしても殴るのはないでしょ、とわたしともう1人は顔を見合わせて、でもそれ以上は何も言えなかったんだよ。だけど、数年前まったく別の女友達が「実は夫のこういう言動がちょっと怖い」という話をしたとき、それって実際的な暴力ではなかったんだけど聞いていた全員が「それはDVだよ」って言って、そうしたら当人がはっとした顔になって「そうだ、DVだ」ってなったの。その後、彼女は離婚しました。あらかじめ知識があったから気づけて、逃げることも防ぐこともできたんだと思う。だから、「それはエントラップメントだよ」「言われてみればそうだね」という会話が成り立つようになるくらい、知識として広まっていけばきっと違ってくると思います。

 

  

セクハラのはなしをきいたときにどう思ったか?——「わたしの問題」として関わる

  

——2017年4月にWから「俺の女」といわれて、「ああもうこれはヤバイどうしよう」って追い詰められて、そこでやっとわたしは川口先生にセクハラのことを相談したのですが、話をきいてどう思いましたか?

 

川口 これインタビューには載せられないと思うんだけど、わたし、「███████」って3回くらい言ったよね?(大笑) 

 

——言ってた(大笑)。

 

川口 なんかね、あまりに怒りが沸き起こってきて。わたし、「███████」ってフレーズを口にしたの、たぶん人生で2回目だったと思う(笑)。1回目は、女友達がある人にひどい扱われ方をした話を聞いたときで、思わず椅子から立ち上がって泣きそうになりながらそれ言った記憶がある。「███████」って、日本語を母語として育ってきた女性がナチュラルに口にできる唯一で最大の罵倒語なんじゃないかな。

 

——あんなに怒った先生見たのははじめてでした(笑)。

 

川口 わたし自身がセクハラを経験したのは主に会社員時代なんだけど、その頃はセクハラという言葉もまだそんなに流通してなかったし、「社会に出て仕事をしていれば女性は嫌な目にあうのがあたりまえ」とすり込まれていたから、ガマンして、受け流すことばっかり上手になっていったんだよね。セクハラがよくないことだと認識したり表現したりできなかったというのが、わたしの中では大きな傷で、汚点で、すごく後悔しているんです。「でも今はもう違うでしょ? 時代は進んだじゃない! なのに、まだそんな目にあっちゃうのかよ!?」と思って、泣きたいような気持ちになりました。

 社会全体にそれを許す空気があるから、こういうことをする男性がいまだにいるんだって。大学は学生が守られるべき場所なのに、そんな場所でさえこんなにも壊滅的に嫌な目にあう、こんなことが起こるんだって。わたしが話を聞いていたはずの目の前の彼女が、踏みにじられるようなことになったんだって、そう思うと、すごく辛かった。どこかで、自分のせいだとも感じたの。

 

——ああ。

 

川口 結局ね、わたしは会社員生活を通して、セクハラに対して一度も「やめてください」も「いやです」も言えなかった。言わなかったんだよ。そういう時代ではあったけど、「それはわたしに対して失礼な振る舞いですよ」と伝えようとはしなかった。事を荒立てないように、場の空気を壊さないように、関係性がぎくしゃくしないように配慮して、上手にかわすことしか考えてなかった、それがいけなかったんだ、ってずっと思ってるの。あのときわたしが「それは失礼なことです」とか「わたしはそれを不快に感じています」とか「あなたのそれはやっちゃだめなことです」って表明しなかったから、あの人たちはそれがだめなことだって気づかなかったんだ、今も気づけないまま生きてるんだ、って思ってしまう。彼らは自分がセクハラで誰かを傷つけたなんてひとかけらも想像せずに、昔に比べて今はうるさくなった、窮屈だくらいに思っているんだろう、自分の加害した相手がガマンしてただけだなんて思いもしないだろう、って。でも、それはわたし自身のせいで、わたしが何も言わないことでそういう男たちの感覚を温存させてしまったということなんです。そういう積み重ねが、今、目の前で嫌な目にあって苦しんでいるAさんの状況を作ったんだ、わたしのせいだって、どこかで痛切にそう感じていました。

 

——ああ……。ぜんぜん先生のせいじゃないですけどね。

 

川口 現実的にはそうじゃないって頭ではわかるんだけど、わたしを含めた個人の行動の積み重ねがこの社会をつくったんだと思うから……。そういうことはときどきあるんですよ。何年か前、都議会で質問した女性議員にひどいセクハラ野次が浴びせられたとき、ちょっと困った顔で受け流すように笑った瞬間がニュース映像になってて。

 

——ああ、あれ悲しくなる・・・。

 

↑ 2014年6月18日、当時議員1年目・小会派だった塩村あやか議員が、東京都議会本会議の一般質問において、東京特有の妊婦・母親の悩みについて訴えていた際に、「早く結婚したほうがいいんじゃないか?」「まずは自分が産んでから!」「産めないのか?」といった野次が男性議員から次々に飛び、会場で笑いが起こった。その日の夜に、塩村議員らがことの顛末をTwitterに投稿したところ、東京都に多数の抗議が寄せられ、最初の発言者だけが野次を認めて謝罪した。他の発言者は現在も名乗りでていない。
↑ 塩村あやか『女性政治家のリアル』では、上記のセクハラ野次だけでなく、普段から「女性・若手・独身」という議員の存在がいかにターゲットにされやすいか、いかに危険につきまとわれるかといった体験が語られている。

 

 

川口 ニュースを見ながら、怒りや悲しみや恥ずかしさや居たたまれなさが渦巻いて、わけのわからない混沌としたものに殴り倒されるような感じがして、気がつくと涙が流れてました。「あ、わたしもこの顔してたわ」「これ、わたしなんじゃない?」って。だけど、わたしは何もしなかった、この人が今こうなってるのはわたしのせいだ、って思っちゃうんだよね。

 そんなことにはもう耐えられないので、今回のAさんの事件は、わたし自身の問題として関わろうと思っています。

 

——あのとき先生に話して本当によかったです。わたし個人に限らず、大学院のなかにいるときって、なかが異常だということがみえないので、外側からの、モヤのかかっていない川口先生からの意見が非常に貴重だったな、って思います。

 

川口 じゃあわたしが存在していてよかったです。相談してくれてよかった。

 

 

→その3 詩のあり方・創作の指導の仕方