川口さんの講座——詩の読み方は人それぞれ

  

——前からすごく不思議に思ってたんですけど、川口先生って権威臭がまったくしないんですよね。

 

川口 権威もってないし(笑)。

 

——(笑)。教室ではしっかり「先生」なんですけど、授業の外では「女友達」みたいで、フラットに話ができる。アニメや漫画といったジャンルによる差別もしないし、「文学の中には優劣がある」というヒエラルキー概念も希薄な先生というのに、わたしははじめて会いました。

 

↑『Tiger is here.』『萌詩アンソロジー 詩の向こうで、僕らはそっと手をつなぐ。』など、川口さんの詩には漫画やアニメのモチーフがいっぱい。

 

川口 もともと漫画やアニメが大好きで、わたしは文学に出会う前に少女マンガに出会ってそこで育てられた、と思っているからね。ジャンルの上下感覚はないです。現代詩は……どうなんだろう、俳句だと「結社」の主宰である「師」のもとで切磋琢磨しながら学ぶ、みたいな伝統があって、上下関係もあると思うんだけど、現代詩にはそういう伝統はなく、そもそも歴史が浅いから。詩人それぞれに仰ぎ見るような思いを抱く詩人がいたとしても、それは権威とは違うよね。

 わたしは講師として務めているから詩の講座では先生役としていろいろ言うけど、詩の読み方はほんとうに人それぞれだと思っているの。言葉の意味を取り違えるとかテクニカルな誤読は別として、詩はどう読んだって間違いではないので、こう読めるよと解説はできるけど、こう読まなきゃいけないと指導はできない。書き方だって、ここはもっと具体的な言葉を使った方がいいとか、最初に自分でこう書いているんだからこういう展開も考えてみたらとか、いろいろ助言はしますが、誰にどう否定されたってこう書きたいという作者の思いがあるならそれを大事にするといいと思っているから、こう書きなさいとは言わない。だから権威の持ちようがない。わたしから見えることは伝えて相手の視界が広がるようにしたい、でもわたしには見えないことだってあるはずだからこれが唯一の正解というわけじゃない、と思うようにしています。

 

——なるほど。

 

川口 わたしに現代詩を教えてくれた鈴木志郎康さんが、先生としてそういうふうに接してくれたからね。

 

 【鈴木志郎康】
 日本の詩人・映像作家。第二詩集『罐製同棲又は陥穽への逃走』(1968)で登場した観念的な「プアプア詩」で有名だが、1974年の『やわらかい闇の夢』では一転して平易な言葉で日常や生活が語られる。近年では『ペチャブル詩人』(2014)、『どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた』(2015)など。公式HPでは映像作品も見られる。

 

川口 志郎康先生とは大学時代に出会って、厳しいことももちろん言われるんだけど、「こうしなければだめ」とか「詩とはこういうもの」と押し付けられることはなかったです。「こうじゃない?」って言って、こちらに考えさせてくれるんだよね。詩はとことん自由で、ぜんぶ〝わたし〟が決めていいんだってことが楽しくて、難しいけどおもしろいんだと教えてもらった気がする。なのに自分が一つの権威になって何かを押し付けたら、詩のあり方と別のものになっちゃう。

 講座の受講者さんたちに感想を言ってもらうと、わたしにはなかった視点が出てきたり、考えもしなかった読みを示されたりもするから、それは「おお〜(拍手)」って素直に思う。最初は浅いところしか読み取れなかった人もだんだん深く読めるようになっていくがわかるし、詩に触発されて自分の記憶や感覚が掘り起こされることもあるからたまに感想と離れて語ってしまう人はいるけど、それはそれで素敵だとも思う。詩の言葉にはそういう力があるからね。せっかく講座という場を複数で共有しているんだから、そういうトータルな体験ができたほうが、参加者には実になるんじゃないかな。なるべくたくさんの読みの可能性を知り、自分の書いた言葉がどう受けとめられたか、もしくは届かなかったかを確かめて、その先でどう書いていくかという選択肢が見えたほうがいいに決まってるから、ありもしない「権威」に臆することなく自由に発言してもらいたいです。講師はそのための場の交通整理役でもあるよね。わたしは「先生」だけど、それは場での役で、固定的な上下関係があるわけじゃないんだからあとは「女友達」みたいに思ってもらえるならそれがいいかな。

 

——あ、でも、作品のできがダメな時は、先生ばっさり斬りますよね(笑)。

 

川口 そっか、なるべくやんわり言おうとは思ってるんだけど(笑)。うまくいってない作品って、「この言葉はなんとなくで書いちゃってるな」とか「いい感じでまとめようとしちゃった展開だな」というのは読んでいればわかるから、そういうのははっきり言うよね。自分で書いたことを大事にしながら言葉を吟味してほしいし、詩の言葉が書こうとしていることの核にせっかく触れかけているのに作者が気づかなくてつかめないままではもったいない。書いたばかりの作者が作品を客観的に見るのは難しいから、わたしが全体を眺めて「ここが書けてないよ」「ここはいらないんじゃない?」みたいなことも言う。……わたしも志郎康先生に言われて「ええーっ(ガックリ)」ってなったことあるよ(笑)。

 

——わたしも先生の講座に通いはじめたときは、毎回ドキドキしていってました(笑)。「あー今日も斬られるのかなー」って。でも先生の場合、なぜうまくかけていないのかの理由を丁寧に教えてくださるので。

 

川口 うん。わたしがなぜそう考えたかを言うようにしている。こうしろ、って命令じゃなくて、考えて推敲するきっかけにしてほしいから。

 

——ばっさり斬られるとそのときはめっちゃ落ち込むんですけど、「こういうふうにしたら?」とプラスになるアドバイスをいただけるので、ちゃんと次につなげられるんですよね。

 

↑ 川口晴美・渡邊十絲子『ことばを深呼吸』を読むと、川口さんの講座の雰囲気がちょっとわかる。

 

 

「たいへん女性らしい詩で、自分には理解できません」はNG——おっさん的想像力をどう変えるか

 

——ただ、先生ではなく、他の受講生のおじさんたちから、「まったく理解できない」とか「こういう作品を書いて意味があるのか」とかいわれて瞳孔が開いたことは何度かあります(笑)。

   

川口 (笑)

    

——基本的には、先生の講座では発言は自由ですよね。

  

川口 そうね、思ったことは自分の判断で言ってもらってかまわない。でも、「たいへん女性らしい詩で、自分には理解できません」みたいな感想が出てきたら(実際、出てきたことがあるわけですが)、それに対してはなにかしらコメントするよ。詩は、内容を理解できなくても全然いいんだけど、その理由に性別を持ち出して終わりにするのは雑だからね。言葉の作品のどの部分を「女性らしい」と感じるのか、「女性らしい」と言うときの自分がどういうことをイメージしているのか、「女性のことは理解できなくてあたりまえ」と思っているのだとしたらそれはなぜか、考えてほしい。ただ、講座の場で「女性らしい、というのは思い込みにすぎないんじゃないですか、なぜなら……」みたいなことを理屈で詰めたとしても、人の感覚をすぐに変えられるかというと、難しい。それより、講座でいろんな詩に触れ続けることによってその人のなかの「女性らしい」「男性らしい」という枠組みが揺らいで、ものの見方や考えが更新されていったらいいなと思っちゃうんだよね。あんまりバシッと発言を否定的に返しちゃうと、講座に来なくなっちゃうからさ。

  

——そっか。

  

川口 また来たくなるようにうまいこと言えないかな、って考えてしまう。

 

——先生ってオトナですね。

 

川口 えーっ?(笑)

 

——わたしははっきり言っちゃいたくなるな。

 

川口 はっきり言うほうがいいのかなあ。そうかもしれないねえ。でも世の中の人って忙しくて、自分の守備範囲外のことをじっくり考えている時間がないから、既存の古い枠組みの思い込みをアップデートしないままにしていることが多いよね、わたし自身もそういうところはあると思う。それって、他の人に指摘されてもなかなかぴんとこなくて、自分の実感として腑に落ちない限り切り替わらなかったりするじゃない? 

 

——でもどうだろ。そういうふうに自分の実感としてわかる人って限られてるじゃないですか。たいていの問題って、マジョリティの側にいると他人ごとで済んじゃいません?

 

川口 うーん、そうだねえ、想像力の問題になっちゃうか…。

 

――だからわたしは、そういう場合は痛みを与えるしかないと思ってる。

 

川口 バッサリ斬るの?(笑)

  

——うん。ときどき斬っちゃいますね。「こいつらは普通に生きてても痛みを知らないままだろうな」って思うと。わたし自身もそうだけど、やっぱり人間は痛みがないと根本的には変わらないんじゃないかな。「ほっといてもいつかわかるだろう」みたいな考え方って性善説に立ってるじゃないですか。

  

川口 いや、ほっといたらいつまでもわからないよ。

   

——ああ、それを詩のやりとりするなかで変えさせるってこと?

   

川口 うん。詩の講座に来たってことは普段使いの言葉とはちょっと違う何かを求めているということで、可能性があると思えない? 言葉は使い方で感覚や考えを変えたりするから、たくさんの表現に触れて、ちょっとずつ「今まで思っていたのと違う」って感じでその人の固まっていた世界が揺らぐといいなと思う。気の長い話だけどね。

  

   

えこひいきはしない——先生役として気をつけていること

   

——講座で教えてるとき、先生のお気に入りの作品・作風とかがあって、特定の受講生をえこひいきしてしまうことはありますか?

     

川口 この詩は好きだなとか、この人の書くものは好みだなあっていうのはもちろんありますよ。でも、それはその場ではなるべく表さないようにしてます。——出ちゃってるのかもしれないけど(笑)。あ、たとえば他の人たちの感想があまりよくなかったときに「わたしは個人的にはここが好きでしたよ」と言ったりはする。あと、あまりに好きな場合は、講座を離れて個人の感想として伝えるかな。その場では言わない。

   

——先生ってやっぱりオトナですね。

   

川口 ええええ?(笑) でも先生役として講師料をもらっているんだし、それは気をつけなきゃいけないでしょう。

    

——その内と外の線引きができるかどうかって、ハラスメントを考えるときにも大きい気がします。

   

川口 社会人向け講座だと、みなさん時間割いて、お金を払ってきている、というのが見えやすいからかもしれないね。そこで一人の人だけに肩入れすることはできない。

    

——そっか。たしかに。

   

川口 今は講座にたくさん人が来ているわけじゃないけど、その日に提出された作品はその日に講評できるように時間を按配します。それでもやっぱり最後の方で駆け足になってしまって、「ごめん」って終わることもあるけど。最低限、あんまり不公平にならないように心がけるのは必要だと思う。

    

——そうですね。完全に均等にはできないけれど、極力公平になるように配慮してもらっていると、こっちもわかりますからね。そこで差別があからさますぎるとやる気がうせる。

   

川口 授業などで特定の作品をとりあげるにしても、なぜなのか示されればいいのかもね。「今回はこのテーマについてよく考えたいので、提出されたこの作品についてだけやります」とか。

   

——なるほど。その理由がわからないと「えこひいき」にみえちゃうから。

   

川口 そう。そうすると他の学生・生徒は「先生のお気に入りになるしかないのか」って思ってしまって、不健全なことになる。 

 

 

  

鈴木志郎康さんから教わったこと——1人の書き手を見出そうとする眼差し

 

——川口先生は早稲田大学在学中に鈴木志郎康さんに出会われて、その後ずっと講座にも通われたんですよね。志郎康さんはどういう先生だったんですか? 

   

川口 早稲田でわたしが文芸専攻に進んだのは、志郎康先生が非常勤講師として授業を始められた最初の年だったの。わたしはそれまで小説を書きたいとばかり思っていて、現代詩は全然読んでなかったんだよね。だから鈴木志郎康という詩人も知らなかった。でも詩の授業も受けてみようと思って、「鈴木志郎康ってひとが先生なんだ、どんな詩人なんだろう」と、書店だか図書館だったかで現代詩文庫を手にとって、裏をみたら、パンツいっちょでこっちに歩いてきてる写真(笑)。

   

——あの写真ヤバいですよね(笑)。

↑『現代詩文庫22 鈴木志郎康詩集』(思潮社)の裏表紙。怖い

 

川口 「わたしの先生、大丈夫!?」って思って、と同時に、「これならなんでも大丈夫かもしれない」って思えた(笑)。

   

——逆に(笑)。

   

川口 授業では現代詩の流れをたどりつつ、伊藤比呂美さんやねじめ正一さんらを新しい詩人として紹介してくれて、なにをどう書いてもいいんだ、とわくわくするような気持ちになりました。「女性詩の現在」という思潮社の詩集シリーズも知ることができた。

 

↑「女性詩の現在」シリーズ。

 

川口 で、「じゃあ来週までに一人一篇ずつ書いてきてね」と宿題を出されたとき、書いたらすごく解放感があったんですよね。小説を書こうとすると、どうしても筋立てがいるというか、論理的な筋道をつくりながら言葉をつないでいくわけじゃない? 詩では、そんなことしなくたっていい、ただ言葉だけで書けるんだ、と思ったのが自由な気持ちよさだった。それで提出した詩が、翌週「よかったのを読みます」ということで何篇か読まれた中に入っていたから、すっかりいい気になっちゃった(笑)。

   

——それが先生が詩を書いた最初?

   

川口 子ども時代や高校生の頃に書いたことがなかったわけじゃないけど、現代詩という自覚を持って書いたのはそれが最初。それから、その年の早稲田は100周年記念ということで夏に文芸コンクールがあったんですよ。わたしは小説を応募しようと考えていたんだけど、完成させられなくて、ちょうど詩が楽しくなってちょこちょこ書いたのが溜まっていたから、それを出したんですね。そうしたら、鈴木志郎康さんが詩部門の審査をされていたのだけど、佳作に入選したんです。最優秀作はなかったから詩では一応いちばん評価されたということで。後期の授業で教室に座ってたら「川口晴美さんって、どこ?」って、志郎康先生がそのとき初めてわたしの顔とかを認識して伝えてくれたんだけど、びっくりするやら面映ゆいやら。「あんなに楽しく書いて、あれでよかったんだ」って、さらにいい気になって今へ至る、ってことになったわけです(笑)。

 ただ、そのときの選評のなかで、鈴木志郎康さんは「実作者としておびやかされるように感じる作品はなかった」って書いてたのね。「ああ、先生が学生の詩をジャッジするというより、同じ詩人として、ものすごい作品が出てくるんじゃないかと思いながら読んでくれたんだ」って驚きがあった。結局そのときはそういう期待というか恐れというか、それに見合うようなものは誰も書けていなかったわけだけど、可能だってことでしょ。先生と学生には上下の立場があるけど、作品には関係ない。それが清々しく嬉しかった。

   

――なるほど。同業者の「卵」ではなく、ちゃんと一人の書き手としてみていたということですね。

   

川口 そう。一人の書き手を見出そうとする眼差しを持っていてくれたんだな、って。

 そういうことがあって、よけい詩を書くのが楽しくなったのかもしれない。わたしは卒論を小説で出すことに決めていたんだけど、詩集で出す人たちは鈴木志郎康さんに週一で作品を見てもらう会があったのね。なぜかというと、「小説だったら寝ないでいっきに100枚書けるかもしれないけど、詩は徹夜しても一度に50篇は書けない。1篇ずつ書きためるしかないんだから、週に1回研究室に持ってきなさい」ということで。だから「卒論は詩じゃないんですけどわたしも混ざってもいいですか」ってお願いして、毎週書いて持って行ってました。それがけっこうきびしくて。

   

——その講評が具体的だったんですか?

   

川口 具体的でした。卒業後に通った社会人向けの講座でも変わらなかったけど、志郎康先生、にこにこしながら「なんでこの言葉にしたの?」「ここはなにを伝えたいの? この書き方だとわからないよ」って詰めてくるの。「ここからここまでは助走だからいらないよね」って言われて「えーーっそこは頑張って書いたつもりなんだけど…」ってなったり。納得できなければ直さないんだけどね、わたしも我が強いから(笑)。 それでも、やりとりしながら言われたことを考えるうちに、自分の書いたこと、書こうとしていることがはっきり見えてくる瞬間があって、おもしろかった。自分でもあやふやなまま書いちゃったかもしれないなってうっすら思ってるところをズバッと指摘されるから、真剣勝負的な緊張感がありました。

   

——その「具体的にコメントする」といのが、わたしも川口先生の講座を受けて衝撃を受けました。それまで他の書き手とかと読み合いっこしても、印象論みたいなコメントで終わることが多かったんですけど、川口先生の場合、すごい具体的に、「ここはこうだから良い/良くない」と明確に言語化がされるんですよね。

 逆に、具体的な添削って、ともすれば先生が絶対的な「正解」となってしまったりもするけれど、川口先生の場合、スタイルを押し付けられたりもしないし、それぞれの書き手が表現したいことを、どうやったら最大限うまく表現できるかを、きちんと本人にヒアリングしながらコメントされていてすごいなって思いました。そういうやり方は、やっぱり志郎康さんの影響なんですか?

   

川口 そうだと思う。わたしがやっているのは、わたしが思うような詩を書かせることじゃなくて、それぞれの表現したいことがしっかりつかめるように交通整理して、それぞれの思い描く詩の完成形に近づいていけるようにちょっと横から口を出す、みたいなことなんですよ。……あっそこは行き止まりだけど右に曲がれば抜けられるよーでも左に行きたいならどこにたどり着けるかいっしょに考えてみよっか、みたいな(笑)。志郎康先生の講座では、他の人たちの詩に対する講評を聞くことも、とても実になりました。詩を教わったことがあるのは志郎康先生だけだから、わたしの講座の進め方になにかの影響があるとしたら、それは鈴木志郎康さんの姿勢です。

 

↑ 鈴木志郎康『現代詩の理解』は超いい本。ぜひ再版してほしいところ。

 

 

詩の世界におけるジェンダー差

 

——その後、詩の世界に入られて、いやなことはありましたか?

   

川口 ジェンダー絡みでいうと、文学全般がそうであるように詩もまだまだ男性中心の世界だなと思った。80年代は伊藤比呂美さん、井坂洋子さん、白石公子さん……多くの若手詩人が「女性詩」というくくりで注目されて、その影響で書きやすくなった部分もたぶんあるんだけど、まあ、「女性詩」とくくられる程度にはイレギュラーな存在だったということでもあるよね。今はもう「女性詩」という言い方はしないから、そういう意味では進んできてる感じがします。

 あー、でも何年か前にある詩の賞の受賞パーティーに行ったら、審査員も、受賞者も、候補者も、全員男性だったときがあって、会場に入ってわたしは「うわー……」って思ってたんだけど、行き会ったひとに「全員男性ですね」って言ったら、「あ、そういえばそうだね」って(笑)。

   

——え、キモい。

   

川口 気がついてないの。やっぱりベースは男の世界なんだな、って思った。

   

——あ、でもわたしも、文学勉強しはじめたときに、文学史をみると男性が多数じゃないですか。それをみて「男の方がいい作品つくるんだな」と無邪気に信じてました。そこでかき消されている女性やマイノリティの人がどんだけいたんだろうっていう発想に全然ならないまま、「でも大丈夫わたしはいい作品かけるから」と、他人ごとだと思って。そういうのって、自分が消される存在になってみるまではなかなかわからないんですよね。

   

川口 そうだね。社会人向けの詩の講座に来る人は女性のほうが多いし、詩を書いている女性はたくさんいるのに、「詩人」ということで脚光を浴びるのは男性が多いのを、わたしも長いこと不思議に思ってたよ。今は、若手の女性の詩人たちがすごく活躍しているし、性別で分ける意識は少しずつ薄れてきたんじゃないかな。

 社会人向けの詩の講座を長くやっているなかで、忘れられないことがあって——ある女性が、ご結婚されてる方だったんだけど、「わたしが詩を書いているのを夫がものすごく嫌がるから、夫が寝静まってからキッチンでこっそり書いてるんです」って言われたのね。そんなことがあるのか……って衝撃を受けて。

   

——???……(絶句)いやなんで嫌がるの?

   

川口 理由は一応いくつか想像できる。自分の妻が、自分とは関係のないところで、楽しいことをするのが嫌だっていう夫、世間にはいるんだよね。心が狭いというか、支配欲なのか。あるいは、詩を書いていてもあからさまに楽しそうには見えないだろうから(苦笑)違うかもしれない。詩なんてばかばかしい、自分に理解できないような言葉をつかってほしくない、目の前の人間が文学みたいなものをやっているのは気味がわるい、自分のコントロールできない領域を持っていてほしくない、とかね。結婚して、夫が妻に対して自他境界のはっきりしない感覚をもつと、そうなり得る。妻が自分の所有物というか、自分の延長のような存在になってしまって、彼女には彼女の内面があってそれを言葉にできるんだってことを突きつけられたくないんだろうな、と。

   

——ああ、「自他境界」って、支配を考える上でキーワードな気がしますね。

   

川口  もちろん、妻が夫の趣味に無理解になるケースもあるだろうけど。

 その方はしばらくして講座にいらっしゃらなくなったの。夫に反対されたからやめた、ってことではないかもしれない、「飽きたから」とか「引っ越したから」とか別の理由があったのかもしれない、でも忘れられないんだよね。もうお名前は覚えていないけれど、たまに、あの方どうされているかなって思うよ。

 

↑『現代日本 女性詩人85』(新書館、2005年)によれば、童謡詩人・金子みすゞも、夫に書くことを禁じられ、離婚に追い詰められ、子供を手放さざるをえなくなり、失意のうちに死を選んだという。
編著者の高橋順子はまえがきでこう述べる。「私より若い世代の人たちはいくらでも変身できる可能性と揺らぎのただなかにある。未知の詩人たちも沢山いるはずだ。彼女たちについては、彼女たち自身で後にアンソロジーを編んでいってほしいが、そのときは女性たちが抑圧されることのない社会で、女性詩人ばかりの詩歌集を編まなくてもいいようにと、祈るような気持ちである。」それから10年以上経って、状況はどう変わっただろうか。

  

 

→その4 長期的に運動を続けるために