場はつくっちゃえ

 

——Be Withのみなさんが安西さんをそばで見ていて心配になることはありますか?

 

中村 その人自身は悪意がないのかもしれないけど、安西さんに対して嫌がらせをして来る人と、たとえばイベントスペースなどで、バッティングしてしまわないだろうかということは日頃から気にしてます。同じ業界だからなかなか難しい。会っちゃうときは会っちゃうし。

 

安西 うんうん。人の集まる場所に行くのは覚悟がいる。

 

中村 いつ何時に誰がくるかわからないし、ちょっと怖いよね。

 

——わたしも出版系のイベントとか行けなくなりました。

 

安西 そもそもいく気力なくなりますよね。

 

——いまだに早稲田駅で降りられないし。

 

安西 行きたい場所があったら一緒に行きましょう。

 

——ありがとう〜。なんか行動範囲狭まるの悔しいんですよね。

 

安西 むかつきますよね。

 

 業界の中で良いとされている現場が、誰をも歓迎しているとは限らないよね。行きたくても行きづらい場所がある。無理して仲間にいれてもらうより信頼のできる人たちと一緒にいる方が大事だと思う。

 

——場はつくっちゃえばいい。

 

中村 それこそほんとうに「個」だよね。当たり前だけど親しい人と少人数で過ごしていた方が心身ともに楽で。この年齢になり時節柄も重なったからか、ようやく人付き合いの精査ができるようになった。狭く深く、本当に会いたい人とだけ会う。

 

安西 よく考えてみると、前まではセクハラや差別発言をする人が普通にいる飲み会とかに行ってたことが異常だった。嫌な話聞かされて嫌な気持ちになることたくさんあったし。今ならそんな人とは喋らないけど、当時はどうしてそんなこと我慢してたんだろうと思う。

 

中村 そのときってあんまり重く受け止めなかったし、日常のように過ぎていたけど、よくよく考えたらやばいことっていっぱいあったよね。コロナのおかげでそういう場が減り、改めて問題にちゃんと向き合えるようになった。 

 

 

 

美術・芸術への絶望

 

——みなさんは一連の出来事で、自分の中の芸術や美術へのリスペクトが壊されるような体験はありましたか?

 

一同 ああ〜。

 

安西 ありました。彼らや彼らを擁護する美術関係者をみていると、わたしが信じてきた美術って理念だけの綺麗事だったんじゃないかと思えてきて、それがなにより辛かった。だって美術のこと好きだったから。わたしにとって、映画などのフィクションの物語や制作物というものは、自分の身体範囲の生活圏の先に延びる、現実を拡張してくれるものなんです。それらを信じてるから、広い世界でのびのび生活していられた。一連の問題によってそうしたものが信じられなくなると、自分の身体が届く範囲だけが現実になっちゃった。今まで好きだった世界が、単に虚構の、自分とは全然関係ないものだったんなら、こんな現実に生きてる意味ないと思いました。

 

——絶望ですよね。こういうのって芸術とか学問の場で起こるハラスメントとの特徴だと思うんですが、その分野で活動している人たちに対してそれなりのリスペクトがあるじゃないですか。加害者は純粋な敬意を利用してハラスメントをしているというのがそもそも卑怯だし、利用された側は、今まで自分は何を信じて生きてきたんだろう? って、自分の生き方とか、理念とか、根本的なものを壊される体験になってしまいますよね。

 Be Withのみなさんにも、そういう価値観の転換はありましたか?

 

古賀 ありました。飲み会とかって男の人が多いじゃないですか。基本的にそこでコミュニティを作ってるし、若い人も「こういうところで人脈をつくらなきゃ」と思っている人が多くて、わたしも「そういうものなんだな」と思ってしまっていたんですけど苦手で。でも、「そうじゃないよ」という話ができる人たちと出会って視点がひっくりかえりました。

 今後美術をどうしていくかは自分でもよくわからないんですけど、みんながそういうことを気づけるようになっていったら生きやすくなると思います。

 

中村 展示してるときのお客さんとかも怖いよね。

 

古賀 めっちゃわかる〜。

 

中村 一人で在廊とかも怖い。いつ誰がくるかわからないし。

 

 変な言い方だけど、狭いコミュニティのなかの不特定多数が集まる展覧会という形式を疑っています。今までなんとなく信じてしまっていた制度や形式が、ある個人にとっては脅威になる場合があるんだと気づきました。そこから一度離れてみようと思ったのは、安西さんとBe withのみんなとの活動があってのことです。

 

古賀 絶望はしましたけど、「その程度のものだったんだな」と今は思えている感じです。

 

安西 わたしは問題以降は人が集まる展覧会のような場には行く気になれず、一部の美術作品群を見る機会がなくなりました。よほど見たいものであれば方法を考えて頑張って見に行く。その方法が見つからず諦めることもある。レナさんも行動範囲が制限されたりしていますよね。それこそが被害だと思います。

 

——被害からいかに立ち直っていくかという課題はわたしもまだ全然乗り越えられていなんですが、こういう体験は絶望でもあると同時に、わたしにとっては悟りでもあったと思うんです。わたしはそれまで無邪気に文学というものを信じていたし、権威主義的な業界に適応していたので、そのレールから外れたからこそ新しく見えてきたことがたくさんあって。この体験を自分の中で、今後の作品なり、生きることなりにつなげていくことができたら回復したといえるのかなと思います。

 今、安西さんは創作活動してますか?

 

安西 問題以前から自分の制作を止めていたこともあり、現在はBe withでの活動のみです。

 美術に接する機会が減ってからは映画が好きになりました。映画は一人で見れるのが最高! 自分の体質にも現在の状況的にも合ってる。逆に言えば、美術とはそういう関わり方をできなくなった。以前は、美術が好きだからそこに生活圏を重ねたい、美術に関わる仕事をしたいと考えていたけど、今はそうは思わなくなり、美術について考えるにしても外れたところに身を置きたいと思います。その距離感で何をしたいかを今は考え中。

 

——何に関わるか自体が変わってきますよね。わたしも看過しない会の存在自体が表現活動になってきてる。

 一応、最近になってなんとか詩作にも復帰しつつあるんですけど、それまで数年間、まったく創作できなくなったんです。それを加害者は、単なる「スランプ」であり、セクハラやその後の二次被害が原因であったとするのは「責任転嫁」だとか「身勝手な言い分」と主張していて。

 

一同 ええ・・・。

 

——スランプというのはあくまで「作りたいのに作れない」ことで、「作る気力を根こそぎ奪われる」という被害体験とは別物だと思うんですけどね。

 

 ものを作るってすごく大変なんだぞ。

 

中村 そうだよね。そんな簡単にできたら今頃みんなやってる。

 

安西 そんなこと言ってくるのか‥。書面見たくもないですね。 

 

 

 

回復って何だろう

 

安西 レナさんがいう通り、被害者がその問題のせいで離れてしまった分野というものに、希望をまた見出せるようになるということが、解決といえるための第一の条件だと思います。被害者個人が別のことを好きになったりして、そっちで生きていくことはもちろん自由だけど、分野自体への失望を拭えずに離れてしまうんだったら、それは固有のその問題は解決しなかったということだと思います。

 

——一度ぶち壊された希望を立て直すには、気が遠くなるほど時間がかかると思います。その時間は人にもよるけど、わたしの知人は、過去に文学の大学院でアカハラ被害を受けたことで書くことができなくなってしまって、文学とは異なる業界で就職して働いてたんですけど、8年くらいたって、最近のハラスメント告発の報道をきっかけに、自身が受けたのもアカハラだったと知って、それから戦いはじめて今は書く仕事に戻ったんです。

 もちろんそれって計り知れない喪失なんだけど、希望でもあるんじゃないかなと思って。時間がかかっても、いつからでも回復できると思うと救いになるかもしれない。

 

安西 そういう人の存在には希望をもらいますね。とはいえ、その回復って、その被害者個人の努力によるもので、その人が偉いということに尽きる。本来であれば、被害者個人の努力に頼るのではなくて、周囲のケアや良識的な対応によって被害者が回復できる状況をつくらないといけない

 それと、被害者の回復を根拠として加害者側が被害の深刻じゃなさを主張するってよくあるけど、本当に最悪だと思う。

 

——あるある。「お前が言うなよ」って感じですよね。

 やっぱり、それとこれとは違う層で考える必要があると思って。被害者って「なんでこんな目にあわなきゃいけなかったんだろう?」ということを自分の中で納得させなきゃいけないじゃないですか。あまりにも理不尽すぎる現実から、なんとか立ち上がって生き延びるために、「そこからでも学びがあったんだ」という物語を信じないとやっていけないと思うんですね。

 でも、それはそれとして、当時おかしいところがあったのは確固たる事実なわけだし、現状では被害者のサポートも全然足りていない。そういう「おかしいところは直さなきゃだめだよね」という現実の層の話を、被害者の回復のための層の話と混同させちゃいけないと思います。

 

【「ただ乗り」】
 
2022年4月にNHKで報道された、性暴力裁判の被害女性も、「私の努力と、私の良い環境条件にただ乗りするようなかたちで被告人の罪が軽くなるのなら、あまりに馬鹿げた話だ」と語っている。「ただ乗り」という用語を流通させたい。
(*参照「”性暴力”裁判 被害女性が語った15分のことば」

  

 

 

「創作活動」とは?

 

——さっきの「中立」の話で、距離をとったところに立ちたがる傾向って、芸術の分野だからというのもあるのかな。自分たちは「芸術家」だからジャーナリズム的なところからは距離をおくべきという意識があるからこそ、中立的な立場からの二次加害につながっているかもしれないなと思ったんですが、どう思いますか?

 

安西 うーん。俯瞰して見たがったり、俯瞰してものを見れると錯覚している人はたくさんいるけど、そういう人ってどこにでもいそうとも思うから、分野の特性なのかはわからないですね。ただ、「即時的になにかしらの反応をするべき」といった責任意識を感じている様子の人は結構いた。これは表現に関わる業界だからこそかも?

 

 とりあえず1ツイートしてみる、みたいな。

 

安西 そうそう。黙っていることが悪いことでもないと思うけどね。

 

 自分がこれからも芸術に携わっていく上で、この問題の解決に関わらないという選択はありませんでした。わたしの考えとの距離を確認するという意味で、安西さんや問題の当事者たちと関係があった多くの美術関係者たちの現在のふるまいを注意深くみるようにしてます。

 

安西 Be withのみんなは、わたしと無理に立場を重ね合わせようとするのではなく、違う経験をしてきたそれぞれの立場からこの問題を咀嚼して、解決の形を一緒に探ってくれています。問題の重みを50%ずつ分担するのではなく、各々が自分のこととして100%を背負ってる。その関係性がすごく頼もしいです。さらに、Be withが行ってくれた寄付やメッセージを募るという活動によって、そのような真剣みをもって問題に共に取り組んでくれている人がBe withのメンバーの他にもたくさんいるということを実感できるようになりました。問題以降、解決を目指して問題に取り組めば取り組むほど、自分だけが持つ「被害者」という立場が強調されて孤立感が増していくように感じていたから、支援団体がその構図をガラッと変えてくれたことにすごく助けられました。

 

——「被害者」に限らず真摯に問題と向き合っている人がいると思えると、励まされますよね。寄付やメッセージはとても嬉しい。

 

安西 告発した時点では未来に良いことがあるなんてまったく考えられなかったけど、悪いことばっかりでもないというか、嬉しいことがたくさんあったよね。有意義な活動に繋げられたのはみんなのおかげ。

 

 この活動をしていて、時間がもったいないとか、奪われていると感じることがほとんどないんですよね。みんなと興味あるものをシェアするだけで充実しているので、それが何よりです。

 

——こういう会話をすること自体が創作活動でもありますし。

 

 そう思います。

 

安西 被害側の当事者が自分だけと思うと、孤独に思えてきてついつい悲観的になるから、類似の問題の渦中にあるレナさんや、一緒に問題に取り組む支援団体と、こうしてみんなで話をすることですごく気持ちが軽くなり前向きになります。

 

 レナさんがいなかったり、安西さんがいなかったりする芸術界というのは、絶対ありえない。気まずいところをスルーする人たちはセンスないです。

 

——わたしたち気まずいところにどんどんいきますからね(笑)。

 

安西 ね(笑)。

 

 美術の現場にいて変な権力を感じたら展覧会に誘われても断るとか、そういうことから始めて、それをみんな一気にやればさ、業界すぐに変わると思う。

 

中村 デモだね。

 

 この5人で集まれているだけでも希望だと思う。 

 

 

 

 

 


 

*Be with Ayano Anzai 公式HP

 

*支援はこちらから


 

*大学のハラスメントを看過しない会は、寄付を原資として運営し、記事は全文を無料公開しています。ご支援、よろしくお願いいたします。

 
→支援はこちらから