※ この文章は、2022年6月に公開した、深沢レナによる「陳述書 第1〜4」の解説です。

 

 



 教育の場におけるハラスメントはまことに扱いの難しいものである。というのは師弟関係というのは対等の市民と市民がとりむすぶ「社会契約」ではないからである。そこにはある種の絶対的な非対称性がある。それが師弟関係の生命線なのである。そのことを理解していないと、師弟関係で起きるハラスメントの本質はわからない。

 繰り返すが、師弟関係は社会契約ではない。教わる側が「これこれの代価を払うので、これこれの知識や技能を伝授して欲しい」と教師に告げたら、その時点で、それはもう本当の意味での師弟関係ではない。それは貨幣と商品のやりとりに類するものに過ぎない。

 師弟関係とは、弟子がこれから師に就いて何を学ぶことになるのかについて事前には知らないという場合にのみ成立するものだからである。「自分が何を学ぶのかわからないが、学び始める」というのが師弟関係である。

 わかりにくい話で申し訳ないが、師弟関係とか修業とかいうのは本来そういうものなのである。そして、この非契約的な師弟関係は、それと「自覚されない」ままに、今も学校教育の中に生きている。それが「自覚されない」でいるということが、日本の学校におけるハラスメントの培養基になっている。その話をしたい。いささか長い話になる。




 能には張良と黄石公の師弟関係を扱った曲が二つある。『張良』と『鞍馬天狗』である。

 張良というのは秦の始皇帝の暗殺を企て、失敗して流浪の身となった貴公子である。ある土地で太公望の兵法を伝える黄石公という老人と知り合う。黄石公は張良に「太公望の兵法を伝えよう」と約束する。しかし、いつまで経っても何も教えてくれない。ある日張良は騎乗している黄石公に出会う。すると黄石公は左足に履いていた沓を落とす。「拾って履かせよ」と言われて、張良はそれに従う。別の日、また馬に乗った黄石公に出会う。老人は今度は両足の沓を落とす。そしてまた「拾って履かせよ」と張良に命じる。張良は「またかよ」と思って、ちょっとむっとするのだが、拾って履かせる。その瞬間に「心解けて」、ただちに太公望の兵法奥義を会得する。そういう話である。

 この物語を日本人がある種の「芸談」として繰り返し語って倦まなかったのは、ここに師弟関係の本質があるということを日本の武芸者や芸能者たちが直感したからだろう。

 この物語で黄石公は張良にかたちある知識や技術や情報を何も教えていない。彼がしたのは沓を落としただけである。ではなぜこれが極意の伝授として成り立つのか。

 最初の左の沓を落としたのを張良はただの偶然と解しただろうと思う。当然である。でも、二度目に遭ったときに両足の沓を落としたときに、張良は「これは偶然ではない」と感じた。「この動作は何か意図的なものだ」と。そもそも張良と黄石公の間には「太公望兵法伝授」という関係しかない。だから、これは「太公望兵法伝授にかかわるシグナル」と解する他ない。

 そのとき張良の脳裏に黄石公に対する「あなたはそうすることによって、何をしようとしているのか?」という問いが兆した。この問いが兆したということが「極意会得」の実相である。私はそう解釈している。

「あなたはそうすることによって、何をしようとしているのか?」という問いのことをジャック・ラカンは「こどもの問い」と呼んだ。べつに貶下的な意味で「こども」と言っているわけではないと思う。人間が成熟に向かうときには、必ずこの問いを経由することになるからである。

 あるふるまいを自分宛ての「暗号」として感知することはできるが、その「意味」はわからないということはありうる。ありうるというか、よくある。あらかじめ「暗号解読表」を渡されているのでない限り、その暗号の意味はわからない。でも、それが暗号であることはわかる。メッセージの意味は分からないが、それが「自分宛て」であることは分かる。メッセージのコンテンツとアドレスは別の次元に属する。そこには「ずれ」がある。そして、あらゆる知的な自己刷新はこの「ずれ」から始まる。

 その消息は世界中どこでも変わらない。人間はそうやってしか自分で設定した限界を超えることができないからである。

 旧約聖書では、主は、雷雲や炎の柱や燃える柴などさまざまな非言語的表象を通じて、予言者や族長の前に臨在する。彼らにはそれが何を意味するか分からない。でも、それが「自分宛てのシグナルだ」ということだけは分かる。それが分かれば、そのあとになすべきことは一つしかない。それは「メッセージの意味が理解できるような人間」になるための、長い旅程の最初の一歩を踏み出すということである。もし、自分がいま持っている記号システムの中にとどまる限り主のメッセージは理解不能であるのだとしたら、「システムの外部へ」踏み出す他ない。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい」という主の言葉に従うしかない。

 旧約聖書はさまざまなエピソードを通じて「一神教信仰の起動」の瞬間を記しているが、物語の構造はすべて同じである。「意味はわからないが、自分が宛先であることは分かるメッセージを受信する」ことである。話はそこから始まる。そこからしか始まらない。

 張良の経験も、アブラハムの経験も構造的には同じものである。「学び」も「信仰」もそうやって始まる。




 師弟関係を通じて、弟子が劇的な成長を遂げるのは、「メッセージ」と「アドレス」の間に「ずれ」があるからである。「自分に何を告げようとしているのかは分からないが、それが自分宛てであることまでは分かった」時、弟子は、それが理解できるように自分の手持ちの記号システムを離れる。自分のそれまでの価値観や倫理規範をいったん「かっこに入れる」。意味のわからない言葉を必死に解釈しようとする。

 そういう意味で、弟子は師を信じて最初の一歩を踏み出した時に、まったく無防備な状態になる。甲殻類がいったん身を護ってきた外皮を脱ぎ捨てて、脆弱で傷つきやすい状態を経由しないと、次のフェーズに脱皮できないのと同じである。

 教育の場でハラスメントが繰り返し起き、それがしばしば深い傷を教わる側に残すのは、学びが起動するために弟子はこの「無防備」状態を経由しなければならないからである。師の言動を自分の「既知」の意味システムに落とし込んで理解しようとすることを抑制し、それを「自分の理解を絶した深い意味があるもの」として受け容れ、自分の手持ちの解釈システムそのものをいったん解体し、刷新しようとするからである。

 これは弟子としてはまことに「正しいふるまい」なのである。その決断をなしうるということは、すでに学びの道に重要な一歩を踏み出したということである。「奥義の会得」に等しいほど大きな一歩なのである。

 問題はこの弟子の決断を利用して、弟子を人格的な支配-被支配の関係に巻き込もうとする人間が「教える側」に存在することである。




 今回の深沢さんのケースは、師弟関係において、弟子が自分をあえて無防備な状態に置き、自分の判断を一時保留するという「正しいふるまい」を選択した時に、教師が、それを利用して、自己の欲望を成就しようとしたものである。

 この教師のふるまいが許し難いのは、それが単に教師個人の属人的な卑しさを露呈したものであるというのにとどまらず、師弟関係そのものを辱めたことにある。この教師は、彼女のうちに兆した「学びへの開かれ」そのものを穢したのである。

 まことに気の毒なことだが、おそらくこのあと彼女はもうイノセントな気持ちで「師に就く」ということが難しくなったと思う。あるいはもう一生「師に就いて学ぶ」ということができなくなったかも知れない。自分の価値観を懐疑したり、当否の判断をいったん保留したりということが怖くてできなくなるかも知れない。自分に向かって「謎めいたこと」を告げるすべての人間に対して不信と嫌悪を感じるようになるかも知れない。

 その傷は単に「一人の指導教員にハラスメントをされて不快な思いをした」という程度の言葉では語りきることができないほど深く、場合によっては回復不能のものである。

 この教師は、自分が他人を人格的に支配できることの快感を享受するために、一人の人間の「学ぶ」能力そのものに傷を負わせたのである。自分の中に「学ぶ」気持ちが兆したとき、何かを「信じる」思いが兆したときに、ただちに強い恐怖感が湧き出して、その気持ちを抑え込んでしまうような人間を一人創り出したのである。そのことの罪の重さにこの大学教師はどれほど自覚的だろうか。おそらく、何も感じていないのだろう。このような男にはもともと教壇に立つ資格はなかったと私は思う。

 教師というのは個人で営む仕事ではない。集団として営まれる事業である。同意してくれる人は少ないけれども、私はそう考えている。この職能集団の規範と倫理に、すべての教師はひとりひとり忠誠を誓わなければならない。それは医師たちが「ヒポクラテスの誓い」を誓言するのと同じことである。

「教師たる者は、学ぼうとする者が自己刷新のために、傷つきやすく、脆弱な段階を経由する時には、全力を尽くして彼らを外傷的経験から守らなければならない。」

 私はこれを教育に携わるすべての人間が誓言すべきだと思う。

 教師というのは医療者と同じくらいに太古的な職業である。その最も重要な戒律がこれである。この戒律を多くの人々が愚直に守ってきたおかげでこの職業は今に続いている。教師の本務はこの一条に集約されると私は思っている。