応援してくれているみなさん、いつもありがとうございます。

 寄付や支援の言葉をいただくのは本当にありがたく、物心両面で支えられながら活動を続けています。これはまるで観客席からフィールドへ届く声援を糧にして戦う競技者のようだ、と思うこともあります。

 ですが、実際のところ、わたしは/わたしたちは今、ひしひしと限界を感じています。

 いつまでたっても自分がやったことと対峙しない加害者。ハラスメントを放置し、隠蔽し、被害者を救済するのではなく対面を護ろうとするだけの大学や企業。加害者の権威に屈し、なあなあでやり過ごして何も変えようとしないそれぞれの業界。平等なはずなのに被害者にばかり過酷な法のシステム。罪の意識さえなく気軽に繰り返される二次被害。それらすべてのストレス、身を蝕むトラウマ、病気、貧困……。戦うべき相手が多すぎて、強大すぎて、もう手いっぱいなのです。

 観客席で見守ってくれている人の存在はわかっていても、声援が届いたとしても、もうこれ以上は無理だ……そう感じるときが頻繁にあります。声援は、「もっと戦え」というふうにも聞こえてしまい、いったいどうやってこれ以上戦えるのだろうと途方にくれてしまいます。

 お願いです。

 観客席にとどまらず、フィールドにおりてきて、わたし/わたしたちといっしょになって、被害者の側に立って、戦ってくれませんか。

 裁判で結果が出るまでは「中立」の立場で、と思われているのかもしれませんが、そうしている間に被害者はつぶれてしまうのです。

  

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 去年わたしが会のHPに発表した「陳述書」には、書籍化の構想がありました。たった一人、自社の企画として諮ってくれた編集者がいたのです。けれど、〝係争中だから〟という理由で会社の上層部に却下され頓挫しました。

 一方、渡部氏はすでに2019年の段階で、詩人の稲川方人氏からインタビューを受ける形で雑誌『映画芸術』において自分の言い分を長文で展開し、無事出版されています。これは被害者にとって多くの問題を孕んだものでした(「陳述書 第7告発 34」参考)。

 2022年末になって初めて、法政大学出版局の『対抗言論』が、わたしや安西彩乃さん(※詳細 https://bewithayanoanzai.cargo.site)の裁判や運動について聞きたいと、インタビューを申し出てくれました。編集作業中、安西さんの訴訟の一つで判決が言い渡され、それに対し安西さんは不当な判決として控訴されましたが、正直「もしかしたらこの判決のせいでわたしたちの記事が削除されてしまうのではないか…」という不安もありました。しかし編集の方々は、進行中の訴訟の結果にかかわらず記事として責任を負える内容だと明言してくれ、そのインタビューは先日出版されました。

 ですが、それ以外は一切、文芸関係の方からこの件に関して何らかのお声掛けをいただいたことはありません。他のメディアや、知人・友人からのつてがあったもの以外は、皆無なのです。

 これは普通のことなのでしょうか。文学の場で起こったハラスメント事件について、文学の関係者は問題意識を持たないのでしょうか。いや、問題意識を持つ人も多いことは感じています。では、なぜそれは文学の場で文字化されたり、公表されたり、出版されたりするところまでいかないのでしょう。業界として、いったいどんな理由があるのか。

 わたしには、わかりません。

 気遣いなのかもしれません。被害者にどうやって接したらいいのかわからない、そっとしておいたほうがいいのではないか、という思いやり(?)のようなもの。でも現実には、そのように奇妙な思いやりによって放置されることで、わたしは告発以前に(細々とですが)築いていた仕事の人脈をほとんど全部失いました。今は若干落ち着いてはいるものの、わたしは仕事もできず、引きこもりとなり、鬱病になりました(「陳述書 第8損害」参考)。わたしの訴訟は3月23日に判決が出る予定ですが、この3年間、全力をかけて望んだこの裁判が、わたしの期待に反する結果に終わった時、わたしはそれを乗り越えられるか、不安でなりません。

  

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 被害者の孤立化は大きな問題です。

 先日、園子温による性暴力を告発した千葉美裸さんが自死されたというニュースをみて、大きな衝撃を受けました。

 わたしは千葉さんを詳しく知っているわけではないし、人の死について憶測で語ることは不適切かもしれない……でもやっぱり言わなきゃいけないと思うので言いますが、千葉さんの告発を受けて、もしも業界の人たちが問題意識を強く抱き、加害者をなあなあに受け入れ続けるのではなく、当たり前のこととして被害者の側に立って断罪し、責任をとらせていたら。もしも千葉さんが二次被害を受けることなく、サバイバーであることの勇気をリスペクトされた上で当たり前のこととして被害者支援を充分に受けることができていたら。そうしたら、状況は違っていたのではないかと思えてなりません。

 この国が、告発した人を嘲笑し、あるいは見なかったことにして片隅に押しやり、孤立化させるのではなく、ポジティブに受け入れる社会であったなら、この死は防げたのではないでしょうか。

 

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 わたしの裁判中、相手からの反論を読むという最も苦痛に満ちた作業は、twitterで声をかけてくれた全然違う分野の女性たちが、必死に時間を割いて助けてくれていました。もちろん、無償で、です。

 彼女たちがいなかったら、たまたまtwitterで彼女たちがわたしを見つけてくれていなかったら、わたしは今生きられていたかどうか、自信がありません。わたしには千葉さんの死が他人事に思えません。

 今、その彼女たちをはじめ、キャンパスハラスメントへの問題意識を高く持った方々が立ち上がり、キャンパスハラスメントの法制度を整えるための署名運動もしています。(※看過しない会は運営には関わっていません)

  

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「文学」に関わる方々は、こういったことすべてをどう考えるのでしょう。今まで何をしてきたか、それをふまえて、これから何をするのか。それは「文学」のフィールドではどのようにとらえられているのですか?

  

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 文学は、何かをするための道具ではない。言葉より行動の方が優先されるべき、というわけでもない。そのことは、まがりなりにも「文学」に関わった者としてわたしも理解しています。

 ですが、文学の業界で起こった事件すら見なかったことにしてやり過ごすのだとしたら、そこに築かれていく「文学」とはいったい何なのでしょう。社会を見つめることもなく、傷ついた者への想像力もなく、変化も目指さず、ひとの生き死ににも関心を持たない、それはいったい「文学」なのでしょうか。

 今は、被害者やごく一部の支援者が、社会を見つめて学び、弱い立場に置かれてしまう被害者に寄り添い、何とか組織や世の中をほんの少しでも変えようとしながら、生きていこうと苦闘しています。そのように、過剰な荷物を背負わされているのです。「文学」業界が背負おうとしない荷物を。

  

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 わたしはもう情報を充分公開しました。

今後も、他の被害者に役立つ情報を公開しつづけるし、他の被害者の方々が孤立に陥らないよう、できるだけのことはしたいと思います。

 でもそれだけでは、被害者だけが頑張りつづける社会では、行き詰まる未来しか見えません。

   

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 どうか、みなさん、観客席にとどまらず、わたし/わたしたちといっしょになって、被害者の側に立って、戦ってください。

 たまたま被害を受けた〝不運でかわいそうな人〟に手を貸すのではなく、みなさんの社会を少しでも良くするために、みなさん自身に行動してほしいのです。

 それが、わたし/わたしたちにわずかに残された希望だと思います。

   

   

2022.1.29  深沢レナ