ハラスメント行為を受けたあとも、被害者は延々と続く日常を生きていかなくてはなりません。フェミニズム批評家として積極的に執筆・発信されている北村紗衣さんに、女性研究者としての体験や、2021年3月末のtwitterでの誹謗中傷事件とその後も止まらない二次被害、ミソジニーへの対処の仕方、死にたくなる前にみておくべきサバイバルのための映画、おすすめフェミニズム本などについてお話を伺いました。 

 

北村紗衣さんプロフィール
 
1983年、北海道生まれ。専門はシェイクスピア、舞台芸術史、フェミニスト批評。東京大学の表象文化論にて学士号・修士号を取得後、2013年にキングズ・カレッジ・ロンドンにて博士号取得。現在、武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授。ウィキペディアンとしても活動。著書に『批評の教室』、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』、『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』、訳書にキャトリン・モラン『女になる方法』など。

 

 

女性研究者として——ハーレイ・クインとの共通点

 

——わたし(A)はそれまで、自分が女性であることで、少なくとも学問の分野では、性差別を受けることはないと信じてきたのですが、実際に大学院で被害を受けてみたことで、教員から性的対象としてみられてしまったら勝手に人生を壊されるんだな、と、女性研究者の置かれている現実を痛感しました。

 北村さんは女性研究者として、(映画のDCエクステンデット・ユニバースに出てくる)ハーレイ・クインに親近感を抱く、とおっしゃられていますよね。お2人とも「博士号持ってるのにバカだと思われてる」って。

 

北村 はい。

 

——どういった体験からそういうふうに思うようになりましたか?

 

北村 たとえば、女性の研究者というと、学会でちゃんとしたスーツを着ているような人が多いんですけど、わたしそういう格好しないんですよ。そうすると学会でもSNSでもあんまりまじめに受け取ってもらえないことがあって。

 ハーレイ・クインって、変わった格好しているんですよね。髪型も個性的で、科学の博士号を持っているような女の人が普通するような格好をしていないんです。

 

 

北村 あの人特別変な人に見えますけれど、実はあの映画では、女の人が暮らしているときに出会ういろんなトラブルが——相当にデフォルメした人物とデフォルメした状況ではありますけれども——語られているとわたしは思いました。

 

——そうですね。「あるある」と共感できる部分の多い映画でした。

 北村さんがまともに受け取ってもらえなかったというのは具体的にはどういうやりとりですか?

 

北村 たとえば院生のとき、女性の院生ともうひとり同じくらいの年の男性の院生と話していたら、「おふたりとも魅力的だから、大学でのポストがなくてもなんとか生きていけると思うことはないんですか?」と言われたことがあるんですよ。それってラフな格好してる男性の学生は絶対言われないと思うのですが、そういう細かいことが何回かあったという感じですね。

 

——学校や大学、アカデミズムの場で、「これはハラスメントだろ」と思うようなことはありましたか?

 

北村 これも細かい話なんですけど、大学のときに、日本史の少人数の授業で、その場に女子学生がわたししかいなかったんですが、「水天宮」という地名の由来の話をしているところで、「水天宮ってなんの神社かわかります?」という話をしていて、「このなかでは北村さんがお世話になるかもしれませんね」って教員に言われたんです。そこには安産や祈願のお社があるらしいんですが、「え、なんでこの人わたしが出産することを勧めてるんだろ?」って思ったことがあって。

 幸いなことに、わたしはあからさまなパワハラとかは受けずにこられたんですけど、そういう細かい嫌なことは結構言われた覚えがあります。

 

——わたしも大学院で「卒業したら体でも売るのか?」ということを言われたことがありました。他の女性の学生の体験談を読んでいても、「女の人は結婚すればいいからいいよね」などとしょっちゅう言われています。

 

編集部 いまだにそうなんだ。

 

——全然まだまだです。

 

 

北村さんのフェミニズム批評——ベクデル・テストの使い方

 

——北村さんがフェミニズム批評をするようになったきっかけはありますか?

 

北村 フェミニズムには高校生のときから興味があって、本を読んだりしていたんですけども、それが批評するときにも使えるということは大学に入ってから知りました。最初はもうちょっとユーモアとか祝祭といった話が好きだったんですが、それに少しだけジェンダー批評を入れて修論を書こうかなと思っていたところ、もうちょっとフェミニズム寄りでやった方が自分に向いているなとだんだん思うようになりました。

 あと、大学院の博士課程でイギリスに進学してから一次史料がたくさん使えるようになったんです。日本にいるとあんまり手に入らない、昔の女性が書いたものや女性に関する記録が手に入りやすくなったので、「こういうことを専門にしたいな」と思いました。今は電子化が進んできたので日本でも10年前よりはだいぶ手に入りやすくなっていますが。

 

——わたしはずっとフェミニズム批評に対して距離をとってしまっていたのですが、それはなぜかというと、作品に対する評価が◯×方式になってしまうような気がしたんです。あるいは減点方式というか、「あるべき正解の形があってそれに当てはまらないものはダメだ」となると、せっかく権力的なものを指摘していたはずなのに、そこにまた別の権力が立ち上ってしまうのではないのかという危惧を抱いていたんです。

 でも、北村さんの『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(以下、『お砂糖』)を読んで、指摘するところは指摘するけれども、たとえば、『バニシング・ポイント』についても、「素晴らしい映画だと思うからこそ、欠点を忘れずにいたい」と書かれていて、欠点を指摘することとその映画を好きでいることは両立するんだな、と感じました。

 

↑ 『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房、2019年)

 

——北村さんがよくブログで言及されている、なんとかテストがあるじゃないですか。

 

北村 ベクデル・テストですね。

 

【ベクデル・テスト】
 
①フィクション作品のなかに、最低でも2名の女性が登場するか。
②女性同士の会話はあるか
③その会話の中で男性に関する話題以外が出てくるか

 

——そもそもあの基準はどういうふうにつくられたんですか?

 

北村 あれはアリソン・ベクデルというグラフィックノベルを書く人が、漫画の中で書いたことの一部が英語圏の映画ファンのあいだでテストのように使われるようになった、という経緯があるんです。

 ただあれはざっくりたくさんの作品をデータとして調べるときに使う感じのものなので、一作一作がベクデル・テストにパスしてるから良い/悪い、というようには使えないんですよね。100作くらい集めて、そのうちどれだけパスしてるかで測るものなので。

 

——なるほど。じゃあ個々の作品を◯×方式で評価するために用いるものではないんですね。

 

北村 そうですね。それは無理だと思います。

 

——ただ、ベクデル・テストの基準は、作品を見る際のヒントになるなとも思って。たとえば、わたしは『君の名前で僕を呼んで』が大好きでしたけど、「そういえば女性同士の会話がほとんどないな」とか、隠された側面をあぶり出す助けになりますよね。そういう偏った側面もあるということをちゃんと意識化したうえで、それでも好きだと思えばいいのかなと今は考えています。

 

 

 

ヴァージニア・ウルフがこわいです——ウルフの影にいる女性作家たち

  

——あと、北村さんの文章って、なんとなくテンションの低い笑いが続いている感じがしました。

 わたし昔読んだ本で、何名かのフェミニストの方たちが集まって、座談会で作品なり対象なりをバサバサ斬っていくというようなタイプのものがちょっと苦手だったんですが、北村さんの文章の場合、あくまで淡々としていて、『お砂糖』のあとがきでも「探偵」というふうに書かれてましたけど、普通に見ていたら気づかないようなものがじわじわ炙り出されていくような、騙し絵が浮かび上がっていく過程をみているような感じがして面白かったです。

 

北村 ありがとうございます。たぶんそれはわたしがイギリスのコメディが好きだからだと思うんですが、イギリスのコメディって、始終クスクスするところがあるけれどバカ笑いは1回のシリーズに1つしかない、といったような感じのドラマも結構あるんですよね。

 

——なるほど。笑いの質がちょっと違いますよね。

 それと、『お砂糖』でも何回か言及されていたヴァージニア・ウルフですが、わたし昔からウルフがあまり好きになれないんです。フェミニズムの文脈だとウルフは頻繁に引用されていますが、ケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』では、ウルフはT.S.エリオットの妻ヴィヴィアンなど他の女性に対してはすごく冷ややかだった、ということが指摘されていますよね。わたしはヴィヴィアンのような女性が好きなので、そこで分断があることが残念だな、って。

 

↑ ヴァージニア・ウルフ 
↑ ヴィヴィアン・エリオット

 

北村 たぶんウルフは実際に会ったらこわい人なんじゃないかな、ってわたしもいつも思ってます(笑)。すごく頭いいし、歯に衣着せぬ感じで、きっとこわいですよね。

 

——『ヒロインズ』で、ウルフは女性問題を取り上げながらも、同時代の女性作家については全然触れてないという指摘もされていますよね。ウルフの影で見えなくなってしまっている作家でおすすめの人はいますか?

 

北村 そうですね。ローズ・マコーリーっていう人が書いた『その他もろもろ』っていう小説があって、これは『すばらしい新世界』より前に出たディストピアSF小説なんですけど、女性が主人公で、第一次世界大戦後の荒廃したイギリスを立て直すために「脳務省」というのが作られて、イギリス政府がトンチンカンな政策をするというコミカルな話で、ウルフとは違う感じで社会と向き合っているユーモアがあって面白いです。ただ全然売れなかったらしくて、やっと最近復刊されて、日本語に訳されて、わたしがちょっとだけ解説を書いたりしています。 

 

↑ ローズ・マコーリー著『その他もろもろーある予言譚ー』赤尾秀子訳(作品社、2020年)

 

——それは面白そうですね。ウルフって言ってること自体は素晴らしいと思うんですけど、あまりにも好きな人多いし、あまりにも引用されすぎていて、なかなか「ウルフ苦手です」と言いづらくて。

 

北村 ウルフって特殊な人なので取り上げやすいんだと思うんですよね。あと、めちゃめちゃ難解なので、どれだけ研究してもネタがあるから、というのもあると思うんです。ただ、やっぱり特殊な人なので、ウルフだけ読んでいても、モダニズム女性文学の全貌がわかるわけではまったくないだろうとわたしも思います。

 

 

北村さんの授業——学生・教員間の水平的な意見交換

 

——あの、思ったんですけど、北村さん、すごく喋るの早いですね。(※ 予定より20分くらい巻いてる)

 

北村 そうですね。授業で早口すぎて学生がよくわかってないことがときどきあります(笑)。最初はゆっくり話そうとして、「きょうは、じゅうななせいきの、こうはんについて、はなします」くらいのスピードでいくんですけど、最後の方は「◎$♪×△¥●&?#$!」みたいな感じになってて、学生たちが煙に巻かれたみたいな(笑)。

 

——ブログの更新の頻度もすさまじいですよね。

 

北村 わたし読んでるか見てるか書いてるかしてないと落ち着かなくて。「過書字」ってありますよね。典型的なあれだと思うんですけど。

 

——作品を見て、どの段階で言語化するんですか?

 

北村 普段は見ながら考えてるんですけど、たまに見ながら考えても落ち着かないものがあって、それだと1週間とか10日とか考えないと書けなかったりしますね。

 

——それはすごく好きなものだったり、あるいはすごく引っかかるものだったり?

 

北村 そうですね。あと、「これは先行する作品があるんだろうけど何だかわからない」という作品だと、10日とか場合によっては1ヶ月とか調べないとわからなかったりしますね。

 

——北村さん、ゼミもたれてますよね。学生が遅いとイライラしたりしませんか?(笑)

 

北村 前は結構そうだったんですけど、最近は慣れてきたので、わたしが勝手にしゃべるのに学生に反応してもらって乗り切っています(笑)。

 

——ゼミでは何をやられているんですか?

 

北村 以前は映画批評のゼミをやっていて、みんなで映画を見て、批評を書いて、お互いにコメントして、最後にネットワーキング図をつくってみたいな、『批評の教室』に書いたようなことをひたすらやっていたんですけれども、それ以外のゼミではシェイクスピアを読んでみんなでお芝居を見に行って議論したりしています。

 

↑ 『批評の教室——チョウのように読み、ハチのように書く』(筑摩書房、2021年)

  

 

——えー楽しそう。この本の最後に、北村さんの指導学生の飯島さんという方とのやりとりが収録されていますよね。学生と教員でお互いの文章を読み合いっこして、添削してコメントしあっているというのがわたしには清々しくて新鮮でした。

 

北村 わたしのゼミでは「わたしの解釈に違うと思うところがあったら言って欲しい」と言ってはいるんですけど、ただ、それってなかなかできないんですよね。飯島さんは2、3年わたしのゼミにいたのでそれがすぐにできるんですけども、1、2年だとそもそも自分の解釈を考えるまでに時間がかかるので。わたしの解釈がおかしいとか文章が読みづらいとかあったらどんどん言ってくれる学生が入るとわたしも楽しいです。

 

——「自由に言っていいんだ」という意識を学生側も持つことが大事なのかもしれないですね。それは批評内容もそうだし、授業のやり方や進め方自体もそうですね。以前、柴田元幸さんともお話ししたんですけど、本来、学生は授業の進め方自体も批判していいはずなんですよね。

 たとえば、わたしが早稲田にいた時、ある教員は時間にルーズで毎回授業に30〜40分遅刻するのに、学生たちは誰も文句言わずに座って待っているということがよくあって。立場上言いづらくはありますが、学生は教員を批判してはいけないものだという認識をもってしまうと、ハラスメントが蔓延しやすい環境ができちゃうと思うんです。

 

北村 なるほど。

 

——だから、先生が書いたものにもガンガン赤を入れていくという作業は、立場が上の人に自分の正当な権利を主張する練習にもなるんじゃないかな、と思いました。

 あと、『批評の教室』読んでて笑っちゃったんですけど、どういうふうに批評を書くかという際に、「あなたが蓮實重彦ならどんなに型にはめても結局は蓮實重彦になる」って書かれていて(笑)。蓮實的な、誰に何を言われようが揺るがない決然とした批評というのは、北村さんと飯島さんがやられていたような水平的で相互的な批評とは対極にあるものですよね。

 

北村 はい。

 

——わたしはそういう蓮實的な批評もあってはいいとは思うんですが、下手すると権威的になっちゃうんじゃないかという気がして。蓮實的な読みというのは、他のいろんな批評と比較してどういう位置付けになるのでしょうか?

 

北村 それがわたし東大で表象文化論に入るまでひとつも蓮實重彦本を読んだことがなくて。アメリカの映画批評の本とかをずっと読んでいたし、フランス映画もあまり見たことがなかったので。蓮實重彦的批評に全然影響を受けていなくて、蓮實重彦批評をちゃんと分析することはできないと思うですけど、まったく影響を受けてないことでわたしの書き方に影響しているものがきっとあるんだろうな、という気はしています。

 

 

 

→その2 被害のそのあと