14 修士2年 (2017年4月〜)
2017年4月、わたしは修士2年生になりました。
わたしは忙しい毎日を送っていました。その頃には知人の同人誌に寄稿したり自分でも同人誌を企画制作したりしていて、5月前半には文学フリマという文芸・批評ジャンルの同人誌展示即売会に参加する予定があり、4月末の入稿に向けて追い込みの時期にさしかかっていました。相変わらず川口さんのところには詩の合評会に行っていましたし、東大にも聴講に行き、毎月自分で主催していた読書会のほか、先輩たちが主催する読書会にも参加していました。少しずつではありますが、外からも執筆の依頼が来るようにもなっていました。
その前、前年度同様1月に開かれた『知恵熱』の合評会で、再度、H氏から詩集を刊行することを勧められていました。前年度よりも話が具体的で、出版社のことにまで話が及びました。その頃にはわたしの方でもそろそろ自分の作品を一度まとめておきたいという気持ちになっていましたので、川口さんにも相談し、3月には出版社へと紹介していただき、夏〜秋に第一詩集を出版することになりました。
基本的に新人の詩人の詩集は自費出版なので、少なく見積もっても数十万単位の費用がかかります。わたしはもともと経済的に余裕がなかった上、詩集の出版代を稼がねばならなくなったわけですが、飲食店でのアルバイトの掛け持ちから、大学でのTAの仕事を増やす方向へシフトし、勉強のための体力を温存することにしました。
4月12日、論系室にいた際、W氏にあいました。W氏は唐突に「詩が(文芸誌に)載ったらしいな」と言ってきて、わたしは驚きました。W氏には自分のペンネームすら教えていませんでしたし、わたしの詩が文芸誌に掲載されたのは半年くらい前のことだったからです。ともあれW氏はうれしそうでした。その詩を提出しに来るように言い渡されたため、翌日、履修科目の変更の許可をもらうついでに、わたしはその文芸誌のコピーをW氏のところへ持っていきました。
その日の6限のWゼミには新入生がほぼ全員出席していました。授業後、W氏はゼミ履修者ほぼ全員ひきつれて戸山キャンパスの目の前のサイゼリヤへと向かいました。人数が多く、和気藹々とした雰囲気で、わたしはW氏の左隣のソファー席に座ることになりました。その日のW氏は機嫌がよく、映画について意見を交わしたりしましたが、詩集を出すことが知られたら何を言われるかわからない、反対されるだけならまだしも、機嫌を損ねて論文提出に支障をきたしたり、詩集出版を邪魔されたりしたら最悪だと思い、話がそちらに行かないように気をつけました。
このときは身体をあからさまに触られるようなことはなかったのですが、後輩の女子学生がわたしの外見について言及したところ、W氏は「この子はかわいい顔してるよ」と言いました。そのように教員が特定の学生の外見を他の学生たちの前でジャッジするのは不適切なのではないかと思いましたし、W氏から「かわいい」対象として自分が見られていたのかという気持ち悪さを覚えましたが、深く考えないようにしました(甲8の1.セクシャルハラスメント)。
W氏ははじめ「一人500円でいい」といっていたので、食事を終えたらすぐに解散となるかと思っていましたが、なかなかお開きにはなりませんでした。終電のある学生たちは0時前後に帰りましたが、自転車通学で終電のないわたしや後輩2名は深夜2時頃まで付き合わされることとなりました(甲8の3.その他のハラスメント行為)。
15 「俺の女」(2017年4月20日)
翌週の4月20日、6限のWゼミ終了後、友人と歩いて帰りかけていると、W氏はわたしの名前を大きな声で呼びました。「お前の詩を見てやる」とのことでした。え、今から? と思いました。わたしからお願いしていたわけではないのに、正直迷惑でした。その夜は20時から先輩や学外の友人とやっている読書会の予定がありましたし(甲54)、次の日は2限から他のゼミ、午後は東大の授業で、それまでに読まなくてはならない宿題もありました。6限終わりで既に20時近く、本音では早く帰りたかったのですが、そのときは修士論文計画書の提出の間際の時期でしたから修論についての話になる可能性もあります。わたしは研究室に行きました。文芸批評家に自分の作品を見てもらう機会は大事だから、と自分に言い聞かせていました。
しかし、W氏の口から出てきたコメントは「これ、(川上)未映子だろ?」——要は川上未映子の影響を受けて書いたのだろう? ということだったのですが、そのときのわたしの詩は黒田喜夫という詩人の作品をふまえて書いたものでした。川上未映子の作品は読んだことはありますが、正直いって影響を受けるほどわたし自身の作風や書きたいことに近接しているとは思えません。前回(12章参照)とまったく同じ、的外れな思い込みのコメントのみで創作の参考にはならず、がっかりしました。しかし、W氏が、「近くにうまい日本料理屋を見つけたから連れて行ってやる」と言うので、そこで腰を据えて掘り下げた講評をしてもらえるのかもしれないと思い、修論の話もそこでできるはずだと考えて、少しだけならとついて行くことにしました。20時10分、読書会を主催している先輩に「W先生と面談になっちゃったから読書会には行けない、みんなの感想文あとでちょうだい」という旨のメールを送り、3分後に先輩から、「終わったら食事もするから時間が大丈夫そうだったらきて」という旨のメールが返ってきました(甲54)。
W氏は歩きながら顔や体を近づけてきました。わたしは自転車を押していたために避けることができませんでした。いつもより距離感が近く不快だったので、早く店に入りたかったのですが、W氏のいう日本料理屋は見つからず、ずっと探しながら早稲田通りを歩きました。W氏がわたし一人を大学から離れた店に連れて行くのは初めてでした。それまではどこかに行くとしても大学の前のサイゼリヤかフォレスタで、大抵そこには誰かしら知り合いや顔見知りがいました。2人だけで、大学から離れ、まだ飲んでもないのにW氏はしょっちゅう体に触れてきて、不安と不快がつのっていきましたが、拒否して逃げることなどできません。明日も朝早いし宿題もあるのに、こんなことに時間を費やされ、読書会にも行けなくなって、とんだ災難だと思いました。
歩いている最中、W氏は卒業生の悪口を言いました。その人はW氏のお気に入りの学生のはずでした。わたしは「この人ってお気に入りの教え子のことまで貶すの?」と驚くと同時に、わたしも卒業後にはこうやって悪口を言われるようになるのではないだろうかと、疑心暗鬼になりました。
W氏のいう日本料理店は見つからないまま、高田馬場駅近くまで来てしまい、イタリアンのコットンクラブに入りました。わたしは前に一度学外の友人と来店したことがありましたが、サイゼリヤやフォレスタより値段設定が高く、██くんの指摘する通りデートっぽい雰囲気があり(甲47)、早稲田大学も言うように夜間は飲酒する客も多い薄暗い店で(甲8)、あまり早稲田の学生たちが普段使いするような店ではありません。なぜかW氏はこの裁判において唐突に、この日の場所はコットンクラブではなくサイゼリヤであったと主張しはじめましたが、サイゼリヤであったとすればラストオーダーの時間が異なり、辻褄があいません。また、当たり前のことですが、わたしがこれから述べることが、コットンクラブで行われたにせよ、サイゼリヤで行われたにせよ、屈辱的な人権侵害であるという事実に変わりはありません。
わたしたちは2階へと上りました。そこにはカウンターバーがありました。ドリンクに酒をオーダーしたあと、W氏は食べかけのシーザーサラダを直箸でわたしの皿に移してきました。すでに食べはじめているものを当然のように他人の皿に移すのは、よほど親密な間柄でなければやらない振る舞いで、強いられた側からすればぞっとするものです。W氏はこのことについて「シェア」と称していますが、それは悪意ある巧妙な言い換えです。仮にわたしがW氏よりも年配の男性作家であったら、同じように食べかけを直箸で移したりしたのでしょうか。そうでないとするならば、自分より立場の弱い学生に対して権力差を利用して親密な間柄を強要していたといえます。そういう行為は以前からもありましたが、その日はあからさまだったため、わたしははっきりと嫌悪感を抱きました。
ともあれ、わたしは詩の講評の続きがあるはずと思って待ちました。さすがに「未映子だろ」という、1年前と全く同じコメントで終わるわけはないと思ったからです。しかし、続きはありませんでした。それ以上何もありませんでした。修論の話もありませんでした。
W氏はわたしを褒めているつもりなのか、「入学する前はお前は人間以下だった」「今は小学生くらいには成長した」と言いました。そのときにわたしが着ていたパーカーを「小学生みたいだ」とからかってきました。なお、早稲田大学はW氏のこれらの言葉を「批評用語」と解釈していますが、早稲田大学のパンフレット(乙ロ4)には「中学生レベル」というセリフがアカハラの例として挙げられています。なぜW氏の発言は規定されているようなハラスメントに該当しないのか、どこからが批評用語でどこからが人格否定なのか、再度ご説明いただかないと納得できません。
さらにW氏は、わたしがお世話になっている翻訳家の柴田元幸さんのことを、今度ははっきり「バカ」とけなしました。柴田さんの著作や発言について分析的に批判したわけではありません。ただ「バカ」と言うだけです。その発言を受けてわたしは、この人は自分が気に食わない人間を全部「バカ」として切り捨て、その価値観を立場の弱い学生という聞き手に押しつけることで自尊心を保っているんだろうな、と思いました。
それからW氏のプライベートの話となり、どう考えても先生と学生の関係性でわたしが知っていいとは思えないような内容に戸惑いながらわたしが聞き流していると、卒業後の進路について尋ねられ、わたしは特に決めていないことを正直に告げました。就活はしてるのかどうか尋ねられ、「していない」と答えました。「体でも売るのか?」と言われて「いざとなったら結婚します」と返しました。こんな話は早く終わらせたかったのです。するとW氏は心配するなと言い、「卒業したら俺の女にしてやる」と言いました。
意味がわかりませんでした。わたしが唖然としていると、W氏は同じセリフを繰り返しました。「俺の女にしてやる」。聞き間違いか冗談だと思い、訂正されるのを待って黙っていましたが、訂正されることはありませんでした。W氏は変わらない様子で何か話しつづけていましたが、言葉が頭に入ってきませんでした。そのあとの会話の内容はまったく覚えていないのですが、とりあえずトイレに立ったことは覚えています。
わたしは席に戻りました。話し続けるW氏の顔をじっと見ていました。この人はいつになったらさっきの発言を撤回するのだろう? と待っていましたが、結局その言葉はありませんでした。わたしは普段のように軽口を叩いて応対することもできませんでした。笑顔も浮かべられませんでした。やがて店のスタッフが23時のラストオーダーを知らせにきました。わたしは鞄を持って立ち上がりました。W氏のことは見ませんでした。階段へ向かって歩きました。するとW氏がわたしに体を摺り寄せてきて、「言っちゃった」と言いました。
それで本格的に身の危険を感じたわたしは、店を出て自転車に飛び乗りました。横断歩道を急いで渡り、TSUTAYA横の坂を駆け降りました。わたしは先輩達が話していた噂話を思い出していました。「W先生は好きな女子学生をホテルに連れ込む」。単なるゴシップと聞き流していましたが、先ほどのような発言を確信犯的にしてしまうような人間なら十分あり得ると思いました。とにかく遠くに逃げなきゃと思いました。
坂を下りきって、横断歩道を渡って、デニーズの近くではじめて自転車を止めました。もう自分のアパートの近くまで来ていたのですが、このまま家に帰って一人きりでいたら精神的に危険だと感じました。それで23時24分、さきほどの先輩に連絡を取り、今どこにいるのか尋ねました(甲54)。6分後に返信があり、駅に近いほうのサイゼリヤ(高田馬場早稲田通り店)にいるということでした。コットンクラブの目の前です。わたしが読書会の感想文を欲しがっているだけだと思った先輩からは、もう食事は終わるから外で待っているようにと言われましたが(甲54)、W氏がまだ近くにいるかも知れないと思ったわたしは、自転車で降りてきた坂をまたのぼると、急いでサイゼリヤに入って先輩たちを探しました。
先輩たちの顔を見るとほっとして涙が浮かんできました。席に座るとすぐに、先ほどW氏に言われたことをみんなに話しました(甲47、55)。学外の友人は驚きながらも話し続けていましたが、先輩たちはどう反応していいかわからず困惑しているように見えました。ただ、そこにあったのは「信じられない」という驚きの反応ではなく、「やっぱりね…」というような諦めのような雰囲気でした。わたしは今までこのような性被害を友人に話した経験がなかったため、読書会が終わってからいきなり飛び込んできて、こんな暗くなるような話をしてしまって申し訳ないという気持ちになりました。先輩の一人は、以前伝え聞いたW氏の性的な噂について口にしました(甲47)。わたしは今まさに自分が体験したことと話が合致していて、こんなセクハラをするような教員が実在するんだとショックを受けました。
アパートに帰ってシャワーを浴びた後も、気持ち悪さはずっと続きました。電気を消しても眠りにつくことができず、激しい動機がおさまりません。わたしは壁に寄りかかって座り、真っ暗な部屋の中で目を開けたまま、これからどうしたらいいんだろうと考えました。W氏に身を売るなんてことは論外ですが、女性に拒絶されると逆上する男性は少なくありません。わたしの拒絶の意思が伝わったら、W氏はきっとパワハラに逆戻りすることは、これまでの経験から容易に予測できました。ですが、わたしはもう以前受けたようなパワハラに耐えられる自信がありませんでした。それでもゼミ生ですからゼミに出ないという選択は許されません。他の学生たちのように突然発表をさせられ、全員の前で「バカ」と激昂される自分の姿がありありと想像できました。合格当時の「俺はいつでもお前を見捨てる」という言葉が、恐怖とともに思い出されました。
それに、目前に提出を控えた修士論文計画書のことが心配になりました。提出には指導教員の許可が必要となります。わたしがW氏の気持ちを拒めば、計画書を不許可にされてしまうのではないか。この1年半、どうやったらW氏に認められるだろうかと考えながら、試行錯誤を重ねて修論の準備をすすめてきたのに、全部水の泡になってしまうのかと絶望的な気持ちになりました。仮に修論を書き上げたとしても、口頭試問の場で罵声を浴びせられ、同級生や後輩たち全員の前で見せしめにされるでしょう。そのようなことは決してわたしの考えすぎなどではなく、実際に過去に██さんの身に起こったことでもあります(甲23)。
わたしは卒業できるんだろうか、仮に卒業したとして、わたしはその後、文学業界でやっていけるんだろうか? と目の前が真っ暗になりました。W氏は大学院のコース内では決定権を持ち、学外にも影響力を持っています。W氏と敵対すれば、W氏の周囲にいる文学界の人たちとコンタクトをとることが難しくなるのは容易に想像できます。W氏に忖度してわたしという存在を無視したり攻撃したり、排除しようとする人は多いでしょう(実際に『映画芸術』がその一例です)。W氏が一度「敵」だとみなしたものをどれだけ執拗に批判しつづけるか、村上春樹を例にとってみればわかります。わたしは今後、大学院を出てからも創作活動を妨げられるかもしれない、発表できても正当な評価を受けられず攻撃されるかもしれない、そもそも文学界への門が開かれないかもしれない、と恐怖を感じました。
それでもまだ、わたしはW氏からメールで「さっきの発言は不適切だった」と謝罪が来ないだろうかとほんのわずかに期待していました。頼むからなにもなかったことにしてほしい、自ら過ちに気づいて純粋に指導の関係のみに戻って欲しい、学生に関係を求めるような発言をすることが不適切だと自分で気付いて謝罪できる人間であってほしい、と祈るような気持ちでした。でもメールはきませんでした。
わたしはずっとベッドの上に座っていました。だんだん自己嫌悪が襲ってきました。先輩たちに前から注意されてたのに、W氏という人間を少なからず信じてしまっていた自分が愚かに思えました。こんな無様な目に遭う自分が嫌でした。自分の学生に性的関係を求めるような言動は対等な恋愛なんかではありません。それは教員と学生という上下関係を利用した卑怯な支配行為です。そんな卑劣なことをするような人間に、「こいつはいける」と思われたことがショックでした。そしてそんなくだらないことに動揺してしまって、眠れずにずっと起きている自分が嫌でした。それから自分が女であることにうんざりしました。単に食事をしてるだけで突然「俺の女にしてやる」などと言われる自分のこの性に吐き気がしました。わたし自身は自分が女だなんて意識していないのに、相手から一方的に女とみられてしまったら、女であることから逃げることができないんだと、この身体に嫌悪感が湧きました。
それからわたしのなかに何よりも強く湧き上がってきたのは、W氏に対する激しい怒りでした。よくもぶち壊してくれたな、と思いました。わたしがどれだけの思いでここまで生き延びて、どれだけの思いを抱いてこの大学院にきて、どれだけの思いで作品をつくり、どれだけの思いで論文を書こうとしているのか、それを見当違いの恋心だか邪心だか知りませんが、こちらの気持ちを考えることなく一方的に押し付けて、わたしの過去も現在も未来も踏みにじられた思いでした。わたしはただ詩が書きたかったし、学びたかった。創作を通じて道を切り拓きたかった。W氏に「先生のゼミにおいてください」「詩をみてください」とわたしから頼んだことは一度もありません。どうして頼んでもないのに勝手に作品を読み、どうして頼んでもないのに「詩を見てやる」と言い、どうして頼んでもないのに「俺の女にしてやる」などと言うのでしょうか? 「してやる」っていったい何でしょう? わたしはそんなことひとかけらも願っていないのに、どうして上から目線なのでしょうか? 吐き気がします。そんな人物に、わたしの時間は奪われ続け、眠ることさえできなくされている。
そういった、怒り、悔しさ、虚しさ、情けなさ、気持ち悪さがわたしのなかでぐるぐると回り、結局、その夜わたしは壁にもたれたまま、一睡もできずに朝を迎えました。